第52話 Waning Crescen-2

「あ、お帰りなさい、若先生。めぐちゃんの具合どうでした?」


自宅から戻って来ると、受付から愛果が心配そうな顔を向けて来た。


診療時間の合間を縫って、恵の様子を見に戻るのはこれで三回目。


そろそろ薬が切れて目を覚ますかと思ったけれど、恵はまだ熟睡したままだった。


「相変わらず熱はあるけど、呼吸も落ち着いてたよ」


「良かったです。清水さんが診察室前でお待ちです」


山尾の言葉に頷いた愛果が、待合室と診察室を繋ぐ短い廊下に視線を向けた。


毎週やって来る地元の高齢者の一人だ。


「ありがとう・・・・・・・・・清水のおばあちゃん、こんにちは、すぐお呼びしますね」


「あらぁ、若先生、今日も男前だけど・・・なんだか浮かない顔ねぇ・・・新婚さんなのに」


「え?浮かない顔してます?」


「悩み事でもあるのかしらぁ?」


「・・・悩み事、というか、今朝から妻が熱を出してまして」


「あらあらあら、それは心配だわねぇ。あのお嫁さん細っこいもんねぇ」


涼川歯科医院の次女が、山尾医院に嫁いだことは地元では周知の事実だ。


ついこの間まで、涼川さんところのお嬢さんと呼ばれていた恵は、いまや若先生のお嫁さん、という新たな肩書で呼ばれる事の方が多い。


愛果が本気で羨ましいと零す、高校時代からほとんど変わらない体型のままの恵は、確かに愛果と比べると細身だし、全体的に薄っぺらい印象を与える。


おしゃべり好きのご婦人たちは、もうちょっと腰回りの肉が無いとお産が大変よと勝手なことを言っているが、結婚前も今も、山尾自身は恵の体型に思うところは特になかった。


華奢だなとは思うが恵は偏食でもないし、小食というわけでもない。


が、具合が悪い恵を見ると、もう少し肉を付けさせた方が良いような気もして来る。


引きこもり気味の彼女を無理に引っ張り出すのは忍びなくて、ガンたちと続けている草野球に連れだすこともしていなかったけれど、もう少し外に連れだすことも考えないといけない。


いきなり超地元民且つ活発な早苗や華南と関わらせるのはハードルが高そうなので、こういう時に友世が居てくれると有難いのだが、彼女は自宅が離れているし今は子育てが一番大変な時期なのでおいそれと呼び出すことも出来ない。


とりあえず、すべては恵が元気になってからの話だ。


清水の言葉に苦笑いを返した山尾の前で、診察室と廊下の間仕切りカーテンが開けられた。


看護師の森井が快活な笑みを浮かべて二人を見つめる。


「心配って言ってもただの風邪ですよ、風邪。ほら、若先生準備してください、清水さんは診察台へどうぞー」


「あら、この時期に風邪?疲れがたまってたのかしらねぇ」


「若先生が疲れさせるようなことしたんじゃないかしら?」


「あらやだもう、森井さんったら!まあねえ、新婚さんだものねぇ、お嫁さんが可愛くて仕方ない時期よねぇ」


「はいはい、好きに言ってくださいね」


大急ぎで手を洗って消毒をしながら肩をすくめてみせる。


が、彼女らの指摘はあながち間違いではない。


湿気が増えて来たので上掛けを早々に薄手のものに変えて、半渇きの髪のままぼんやりテレビを見ていた恵をベッドに連れ込んだのは他ならぬ自分だ。


小さくくしゃみをした彼女の寒くない、を真に受けたのも。


最初は最低限の着替えだけ持ち込んで始まった新生活も、玲子一家の引っ越しに併せて、恵の荷物を一切合切山尾家に運び込んだところで、ようやく本格的な結婚生活が始まった。


恵の持ち込んだ荷物が一通り片付いて、二人での生活リズムが整い始めると、それに倣うように恵の緊張も遠慮も解けていった。


ソファの上で押し倒すと未だに大慌てで逃げ出そうとするけれど、ベッドでは素直に甘えてくれるし、時には子供のように拗ねて見せたりもする。


これまで後輩の恵しか知らなかった山尾の中に、妻としても恵の情報が次々アップデートされていって、それは愛しさを増長させるカンフル剤にしかならない。


だからといって、油断して風邪をひかせたのはやっぱりまずかった。


「風邪だったら・・・そうねぇ、生姜湯で身体を内側から温めないとねぇ」


「あ、それいいですね。生姜湯、飲ませます」


いつも通り経過は順調ですよと伝えると、笑顔を浮かべた清水が、蜂蜜沢山入れてあげてねと教えてくれた。


間仕切りカーテンを開けて、小さな背中が待合室に戻るのを見送った森井が診察室の端を指さした。


「さっき、早苗ちゃんが若先生に頼まれたからって紙袋届けてくれましたけど。市場にお使い頼んだんですか?」


「あ、もう来てくれたんだ。そうなんです。めぐちゃん看病セットを揃えたくて」


山尾が、恵のほかに欲しいものは無い発言を真に受ける訳もなく、医院に向かってすぐに玲子に連絡をして、恵が熱を出したことを伝えて、彼女が風邪の時に好んで口にする食べ物を聞き出していた。


さすがに診療時間中に買い物には行けないので、幼馴染のメッセージグループにヘルプを出したところ、早苗がついでに買ってきてあげると申し出てくれた。


持つべきものは幼馴染である。


おかげで恵の好きなオレンジとリンゴジュースとパイン缶が手に入った。


あとはここに自宅の冷蔵庫にあるヨーグルトを添えれば、教えて貰った”めぐちゃん看病セット”は完成だ。


「・・・・・・若先生ってマメだったのね」


紙袋の中身を確かめる山尾に向かって、森井が小さく呟いた。


「俺も、ついこの間気が付きました」


「だからって、午前のうちに三回も奥さんの様子見に行くのはやり過ぎです」


「やっぱり心配で・・・・・・あ、告げ口しないでくださいよ、森井さん」


眉を下げて笑った山尾に、森井が呆れた顔で先が思いやられるわぁと大袈裟に溜息を吐いた。


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