第51話 Waning Crescent-1
「うん。風邪だね」
新妻の首筋に手を当てて、若先生の顔で山尾が言った。
ですよねぇ、と心の中で返しておく。
馴染みのある怠さと身体の重さは、年に一,二度経験するものだ。
上掛けをポンと叩いた彼が前髪の上にキスを落とした。
おやすみなさいのキスでもなく、おはようのキスでもなく、お大事にのキス。
反射的に閉じた瞼を優しく親指が撫でて離れて行く。
自分で触れるよりも数倍優しい手つきに、こんな状況なのに胸の奥がキュンキュンした。
新婚マジックというやつだろうか。
「食欲ある?」
「・・・・・・あんまり」
「恵、具合悪い時って何食べてたっけ?風邪でうちの病院来たこと無かったよな?」
本格的に新涼川邸の施工が始まり、玲子一家と恵の引っ越しも終わって、ようやくひと段落した梅雨間近の肌寒い日朝、くしゃみで目を覚ました恵の身体の異変に真っ先に気づいたのは山尾のほうだった。
いつもより妻の体温が高かったのだ。
すぐに体温計を取り出した山尾は、本日一人目の患者に診断を下すと家の持ち帰っている薬のストックを確かめながら尋ねた。
「んー・・・ほら、大晴診て貰う時に、大人用のお薬も一緒に貰ってたでしょ?」
子供が風邪を引けば看病した大人にも移るのが常なので、親子セットで薬を処方してもらうようにしていたのだ。
その辺は物凄く柔軟に対応してくれる山尾なので、二度手間が省けると患者たちから好評だった。
「ああ・・・そうだったな。ちゃんと診たこと無かった。ヨーグルトは?」
「食べる」
「うん、分かった。果物好きだろ?昼に市場でなんか買ってこようか?」
大型スーパーほど品揃えはよくないが、リンゴやグレープフルーツなら十分手に入る地元の果物屋は山尾が子供の頃からあるお店だ。
フルーツ好きの父親の為に、母親が果物を欠かすことが無かった涼川家とは違い、山尾家では果物を常備する習慣が無い。
ご近所さんからのお裾分けを有難く頂く程度だ。
これまでの山尾ひとりの生活を考えればそれも無理はなかった。
「冷蔵庫にあるのだけでいいから・・・」
山尾家の冷蔵庫のストックが空になることは無い。
結婚してからも相変わらず山尾の幼馴染たちからの差し入れが後を絶たないからだ。
おかげでどんなに疲れて帰宅した時でも美味しい手料理にありつけている。
それでも山尾は何か追加で買って来た方が良いと考えているようだった。
休憩時間に買いに行かせるのは忍びないし、これはただの風邪である。
重症患者のようにあれこれ買い物をお願いするのは申し訳ない。
「ほかに欲しいものないの?」
「んー・・・ない」
ここが実家だったら、恵が何か言う前に母親と姉が看病セットという名の恵の好物を用意してくれるのだが、ここは山尾家だ。
結婚したばかりの夫にあれこれ甘えられるほど馴染んではいない。
納得はしていないようだが、頷いた彼が神妙な面持ちで尋ねて来た。
「じゃあ、ヨーグルトと水持って来るから、それで薬飲める?」
万年運動不足で基礎体力があまりない恵が熱を出すのは珍しいことではなかった。
大抵夜中に熱が出て、薬を飲んで眠ったら翌日には八割回復するような軽症ばかりだ。
風邪も同じで、本人としてはあ、またか、という感覚だ。
けれど、目の前の山尾は枕元から一向に動こうとはしない。
「先輩・・・・・・心配し過ぎです」
「恵が具合悪くするの初めてだから」
「そんな珍しいことじゃないから、気にせず仕事行ってください」
このまま放っておいたら延々と側について居られそうで、恵は無理やり声を張り上げた。
医者なんだから、病気の患者を目の前にするのは慣れているだろうに。
冷蔵庫からカップのヨーグルトとペットボトルを取って戻った山尾は、恵が薬を飲み終わるまでやっぱり側を離れようとはしなかった。
ただの風邪のはずが、これでは重症患者のようだ。
壁掛け時計を指さすたびに、まだ大丈夫だからと隣に居座り続けた彼がベッドから腰を上げたのは受付開始時間を過ぎた後だった。
「空き時間に」
額に手を当てて熱を確かめた彼の言葉を遮るように口を開く。
「見に来なくていいですから・・・ほら、患者さん待ってますよ」
一日に何度も自宅に持っていたら、スタッフのほうが心配するに決まっている。
何かあったらスマホに連絡を入れます、と枕元のそれを握って見せて、渋々彼がベッドルームを出て行くのを見送ってまもなく、薬の作用で緩やかな眠気が漂ってきた。
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