第53話 moon phase 29-1

カウベルを鳴らしてリナリアに入って来た山尾が、テーブル席で新調したばかりの薄型パソコンを開いている妻を見つけて息を吐いた。


そんな山尾に向かってマスターが人好きのする笑みを浮かべる。


「いらっしゃい」


「やっぱりここに居た。せめて行き先くらい教えておいてくれないと心配するよ」


さっそく飛んできた小言に一瞬だけ液晶画面から視線を持ち上げた。


途端眉根を寄せた旦那様と視線がぶつかる。


ほんとうにごめんなさい。


お叱りモードに気づいてきゅっと首をすくめた恵と山尾を交互に見やってマスターが困り顔になった。


「え、なに?恵ちゃん山尾くんに言わずに来てたの?連絡は?」


昼間の時間帯にリナリアで執筆活動に勤しむのは最近の日課になっていたので、執筆中の作品の続きを考えるのに夢中でうっかりしていたらしい。


作家あるあるなんです、と言って笑って貰えそうには・・・ない。


「あー・・・忘れてました・・・あ、そう言えばスマホも・・・ごめんなさい」


天気が良かったので、ノートパソコンと財布だけカバンに入れて家を出てしまったのだ。


だって旦那様の仕事場は目の前なので、連絡する必要がまずない。


恵の行動範囲なんてたかが知れているし、行方不明になりようがないのだ。


それでも連絡を怠ってここまで探しに来させてしまったのは間違いなく恵に落ち度があるので素直に申し訳ない、と頭を下げれば、手にしていたスマホをひらひら翳して、山尾がスマホ不携帯と零した。


返す言葉もございません。


「持ってきたよ。着信鳴らしたのに出ないから心配して家に戻ったら誰もいないし・・・」


鍵が開いているのはいつものことなのでここはもう両方がスルーである。


玄関を開けて返事が無かったら地元住民は、山尾医院に顔を出すのだ。


本当は山尾が午前診療を終える頃には一旦執筆作業を切り上げて自宅に帰るつもりだったのだが、思いのほか筆が乗ってしまって居座ってしまったのだ。


これも作家あるあるなのだが、山尾には通用しない。


「でも、私が行く場所なんて、ここか実家しかないでしょ?」


「それでもスマホはちゃんと持って出なさい。心配するから」


「はーい。あ、宗介さん、ついでにお昼食べて帰りましょうよ」


キーボードを叩く手はそのままで提案したのは、一区切りつくまで此処に居たかったから。


頭に思い浮かんだ映像が途切れるまでは描き切らなくては、途中で止まるともう書けなくなってしまうのだ。


誕生日プレゼントに何が欲しい?と言われた時、真っ先に浮かんだのが軽い速い薄いのノートパソコンだった。


山尾はどうせなら光物を贈りたかったらしいけれど、自宅で過ごすことが多い恵に華美な装飾品は不要だし、ジュエリーを眺めてうっとりする趣味もない。


それなら実用品を貰ったほうが嬉しいと提案すれば、まあそう言うだろうなと思ったよと言われて、すでに用意されていた最新機種のパンフレットを差し出された。


山尾と結婚して本当に良かったと心底感動した表情で感謝の気持ちを伝えたら、彼は何とも複雑そうな顔をしていたけれど。


後で聞いた話によれば、幼馴染の早苗も、華南も揃って実用品を強請るタイプらしい。


まだ会ったことの無いもう一人の幼馴染は、自身も宝飾品会社に勤めているのでアクセサリーを強請ったそうだ。


山尾がこういう恵に辟易せず一緒に居てくれるのは、少なからず早苗たち幼馴染で免疫が出来ているおかげである。


「そのつもりで来たよ。何食べる?」


「んー・・・・・・片手・・・・・・じゃなくて、ちゃんと食べます。ええもう全力でがっつりと」


そう言えば、昨夜の夜ご飯もおにぎりで終わらせてしまったなと今まさに思い出した。


ちょっといまいいところだから、と山尾に断ってパソコンの前から動かなくなった恵のもとに熱々のおにぎりと、お味噌汁を運んでくれたのは仕事を終えて帰宅した旦那様だった。


寛大な夫にはどれだけ感謝しても足りない。


いま恵がこうしてパソコンに向かっていられるのは、理解のある山尾のおかげである。


朝も恵が眠っている間に医院に行ってしまったし、夫婦で一緒に食事する本日の一食目くらい、ちゃんと顔を合わせるべきだろう。


山尾はどんなに忙しくても恵が話しかければ論文を読む手を止めて視線を合わせてくれるし、彼が自宅で仕事をするのは決まって恵が寝入った後か、執筆作業に入った後だ。


自宅で過ごす時間は、極力恵のスケジュールに合わせてくれている彼のおかげで、夫婦生活は円満に送れている。


間違いなく、恵は一生山尾に頭が上がらない。


「とりあえず食べてくれればいいよ。午後診始まるまでに戻ればいいし。待つのは慣れてるよ」


さらりと言った山尾が食事メニューのページを開いて差し出してくれる。


「え、そんなに付き合ってくれるの?」


分かっていたけれどなんと本当になんと偉大で寛大な旦那様だろうか。


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