第39話 Waxing Crescent-2

「あのね、恵。涼川歯科医院ほどじゃないけど、うちもそれなりに利益は上げてるから」


休憩時間もせっせと往診に通っているし、地元住民とのコミュニケーションは怠ってはいない。


最後は口コミが物を言うのだということは、父親の代から痛いくらい理解している。


この町唯一の医院だからといって胡坐をかくような真似をしていたら、あっという間にフットワークの軽い若い世代は離れて行ってしまうし、それは地元の高齢患者離れにもつながる。


「でも、その利益は山尾先輩のお金であって、私が選んだ何かに使うべきお金じゃないですよね?」


「俺が自分の稼ぎで好きなものを買ったんだけど」


「好きなもの!?これが!?」


ぺしぺしと手触りの良い座面を叩いて恵が詰る。


これはもう一杯飲ませないと駄目なようだ。


ガンの母親お手製の生麩田楽を差し出して、美味しいよと笑いかける。


空腹を訴えていたのは同じだったようで、恵は素直にそれを口に運んだ。


すかさず残りのハイボールを飲み干すように促して、氷だけ残ったグラスにさっきよりも多めのウィスキーを注いだ。


「座り心地はどう?」


差し出したグラスを受け取って、身体を包み込む大きなソファーを揺れる眼差しが確かめていく。


「・・・それは・・・・・・すごくいいですし・・・」


「安い買い物じゃなかったけど、俺的には満足してるから」


「・・・・・・でも」


「責任感じてるなら、保証期間の間は愛用してよ。たしか10年だったかな」


それだけの時間があれば、さすがに彼女もこの家を去ろうなんて思わないだろう。


まだ見ぬ10年後の二人が、こうして並んで座っている事を切に願う。


「10年・・・・・・」


「意外とすぐだよ」


呟いた恵が、ハイボールのグラスを傾けた。


さっきより蕩けた眼差しは、どこかぼんやりと虚空を彷徨っている。


するすると座面を撫でる手のひらを追いかけて、捕まえた。


「ねえ・・・・・・先輩?」


三分の一ほど残ったグラスを軽く揺らして、恵が、むうっと眉をひそめる。


「なに?」


「これ、いつもより濃くありません・・・・・・?」


「・・・ちょっと濃いかもね。無駄な問答したくないから」


「無駄って・・・なに・・・」


訝しげに唇を引き結んだ彼女の手から、冷えたグラスを抜き取ってテーブルに戻す。


「お気に入りのものが一つでも増えたら、居着いてくれるかなぁと思ったんだけど・・・俺、読み間違えてる?」


「・・・・・・お気に入り・・・に・・・・・・しても・・・・・・いいんですか?」


「うん、いいよ」


目を伏せて微笑めば、恵が、まだ考えるように視線を巡らせた。


「私・・・・・・邪魔じゃ・・・ありません?」


「俺いっぺんでも恵のこと邪魔者扱いしたことある?」


「んー・・・・・・それは・・・」


「ないよね?」


そんなことあるわけがない。


言い含めるように問いかけせば、恵がこくんと頷いた。


「ない・・・ですね」


引き寄せる前に後ろに倒れた身体を支えながら、ソファーの座面に押し倒す。


真上から覗き込んでも、恵は声を上げなかった。


そっと丸い肩を撫でて、彼女の名前を呼ぶ。


「恵、俺はずっと前からここに居てって言ってる」


そうなってくれるように必死に立ち回っているつもりだ。


重たそうに瞼を伏せて、持ち上げてを何度か繰り返して、彼女がふうっと息を吐いた。


引き寄せられるように唇を重ねれば、ソファーの上で行き場を失くしていた彼女の指先が腕に触れた。


それでいいんだよと伝えたくて、啄んだキスを深くする。


「・・・・・・っん」


零した吐息を掬うように唇を割れば、熱を帯びた眼差しがこちらを捉えた。


上顎を擽っていた舌先を引き戻して。ほんのりと赤くなった頬にキスを落とす。


震える瞼にも唇を寄せて、鼻先にキスをした。


きゅっと目を閉じた彼女の唇をさっきの半分の強さで啄んで、反応を待つ。


躊躇うように緩んだ指先に、もう一度力がこめられた。


喉を擽って耳たぶを撫でた手のひらで後ろ頭を包み込む。


先に唇を開いたのは恵のほうだった。


そっと柔らかい粘膜を舐めて、迎えに来た小さな舌を絡め取る。


くちゅりと二人の隙間で水音が響いた。


息を詰めた彼女が苦しそうに唇を開く。


またすぐ塞ぎたくなって、下唇を食んだ。


柔らかい唇がもっとと強請るように追いかけてくる。


髪を梳いていた指の腹で耳たぶの後ろを擽って、首筋をそろりと辿る。


震えた彼女の額にキスを落として、もう一度肩を優しく撫でた。


そのまま二の腕まで手のひらで辿って、そこで、ああここはベッドじゃなかったと思い出す。


彼女が選んだソファーが届いたその日の夜に、真新しいそれの上で恵を組み敷いている自分を俯瞰して、まずいなと身体を起こした。


そういうつもりで買ったわけではなかった、とは言わないが、さすがにこれは時期尚早だろう。


酔いに任せて抱いた後泣きを見るのは間違いなくこちらのほうだ。


これで綺麗さっぱり過ちでしたと割り切られてしまったら、もう二度と縋れない。


思わず舌打ちしかけて、恵の呼吸が穏やかになっていることに気づく。


「めぐ・・・み・・・」


呼びかけに応えてくれるはずの彼女は、全身を包み込んでくれるソファ―に身を委ねて健やかな寝息を立てていた。




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