第34話 Cold Moon-2

玲子の設定した期限を早々に突きつけて、彼女の居場所をこちらに移してしまうことは簡単だ。


恐らくそのほうが頑なな恵にとっては決断しやすくなるだろう。


今の状況で玲子から、駐車場とガレージ壊して二世帯住宅建てます、あんたの部屋はありません、と言われたら恵は、恐らく山尾を頼って来るだろう。


が、それだと彼女が口にしていたルームシェアだ。


そのままズルズル居着いた彼女との二人暮らしは容易に想像が出来た。


そして、それは嫌だと思ったのだ。


今度こそ、未来を掴みそこなうわけにはいかない。


後悔するわけにはいかないのだ。


斜め前に腰を下ろしている恵が、ワイドパンツから覗く足首をそろりと撫でた。


古い日本家屋は、そこかしこから隙間風が吹き込む。


身を乗り出して、ホットカーペットの電源に手を伸ばす。


「ご飯食べたらすぐ帰るから平気です」


「遠慮するところじゃないよ」


答えざまこの二週間ですっかり赤みが引いた白い頬に唇を寄せた。


「ひゃあ!」


驚いた彼女の手から零れそうになったぐい吞みを掴んでテーブルに戻す。


「油断はね、していいと思うよ。ずっと緊張してるといざという時動けないでしょ」


「っ先輩っ」


詰るように呼びかけられて、遠慮も尊敬も皆無のその声に嬉しくなる。


一瞬で赤くなった頬が恵の動揺をまざまざと伝えてくれた。


折り曲げた指の背でそろりと撫でてから離れる。


「痕残らなくて良かった。涼川先輩に、ケンカしてもいいけど手は出すなって言っとくよ。爪で引っかかれたらことだし」


「・・・・・・もうケンカしませんよ」


恵が不貞腐れた表情で言い返した。


姉の玲子と一緒に居る時にしか見られなかった顔を独り占め出来た事実に頬が緩む。


森井が最近の山尾を見て、機嫌が良いと評するのはこういう理由からだ。


「うん、まあそうして欲しいけど。こら、端まで逃げないで。折角電源入れたんだから。恵の嫌がる事はしないよ」


実際あの夜も今も、恵は眉根を寄せたけれど逃げようとはしなかった。


返って来た反応が、拒絶ではなくて困惑だったことにどれくらい山尾が安堵したのか、彼女は知らない。


生理的に受け付けないと言われたら本当にもうお手上げだったけれど、どうやらその心配はなさそうだった。


あの場面で、恵が自分のことをただの後輩だと一度でも口にしていたら、十分その気になったと言い返す程度には昂っていた。


あとは恵の気持ちとタイミング次第だった。



「・・・・・・最近病院行ってないですけど・・・・・・長谷さん元気ですか?」


意趣返しのように飛び出した受付助手の名前に、はいはいと頷く。


どうして彼女はこうも頑なに長谷愛果を勧めて来るのか。


自分が雇い入れた従業員に特別な感情を抱くなんて有り得ないし、職場は職場だ。


恵が気にしている看護師との交際も、彼女が父親の下で働いていて、山尾が研修医として大学病院に寝泊まりしていたからこそ芽生えた恋だった。


そして、完全に終わった恋でもある。


彼女を幸せに出来なかった罪悪感と後悔があるからこそ恵を手放したくないのだ。


恋人やルームシェアという曖昧な形では無くて、結婚という形式にこだわったのも、確実な未来が欲しかったから。


恐らく、あの時の彼女はこういう気持ちを求めて手を伸ばしてくれていたんだろう。


あの頃のことがあるから、尚更医院のなかで誰かを特別視しようなんて思えないのに、恵のなかでは、不思議なくらい長谷愛果最強説が出来上がってしまっている。


高校時代の彼女がどれだけ魅力的で愛らしくてみんなの憧れだったのかを滔滔と語られても、へえ、そうとしか言いようが無いし、大人になった彼女の色気について語られても全く食指が動かない。


そもそも長谷愛果は山尾の好みでは無かった。


たしかに恵と比べると、彼女は肉感的で男受けの良い雰囲気ではあるが、すべての異性を魅了するかと言われれば答えは否だ。


山尾にとっては凹凸の少ない恵のほうがよっぽど魅力的に映る。


どうせ言ったところで正確には伝わらないだろうけれど。


抱き心地云々については試してみないと分からないが、山尾にとって涼川恵は申し分ない得難い女性なのだ。


「ああ、長谷さんね。うん、なんか最近ちょっと雰囲気が変わったよ」


見た目はそのままなのだが、何となく纏う空気が柔らかくなった。


何か心境の変化が起こったのかもしれない。


「え!?」


「なんでそんなに驚くの」


食い入るようにこちらを見つめて来る恵の真意を知りたくて視線を合わせる。


と、すいとすぐに彼女が逃げた。


「いえ・・・別に・・・・・・あの、ちょっと長谷さんのこと気になってます?」


気になっていないと言えば彼女はホッとするのだろうか、それとも残念がるのだろうか。


探るように俯いたままの恵に視線を向けて、彼女が膝の上で指遊びをしていることに気づいた。


言った側から後悔するなら言わなければいいのに。


「恵が喜ぶほうの答えを返すよ、なんて言って欲しい?」


どんどん下がっていく彼女の視線を追いかけて、横髪が覆う耳たぶに唇を寄せる。


甘噛みされたことを思い出したのだろう彼女がぱっと顔を上げた。


伸ばした手で頬を包み込んで引き寄せる。


唇が触れる直前で、息を吐いた恵がそろりと瞼を下ろした。


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