第33話 Cold Moon-1

「私、先輩のこと、かなり美化して見てたと思います」


華南お手製の一口コロッケにざくりと箸を突き立てて、恵が不服そうに零した。


もう山尾とこうして食卓を囲むことになんの疑問も抱かなくなっているようだ。


今日もお邪魔しますと言っていつも通り家にやって来て、食器の準備を手伝ってくれた。


彼女が馴染んだ我が家に居る事が当たり前になってきて嬉しい限りだ。


そして、そう思う自分の気持ちに驚いて、くすぐったい気持ちになる。


どうやら自分で思っている以上に彼女のハマっているらしい。


ここ数年可愛いな、以上の気持ちを女性に抱いた事が無かったので、さっぱりそういう機能は眠りについてしまったのかと思っていたけれど、ちゃんと独占欲も性欲も残っていたようだ。


さすがにそれを今すぐ彼女にぶつけるわけにはいかないけれど。


あの後恵は玲子とは一応の和解をしたらしい。


姉妹喧嘩は引きずらないのが鉄則のようだ。


切り干し大根の煮物を小皿に取り分けてやりながら眉を下げる。


「美化ってどんな?そんないい所見せてないと思うけど・・・?でも、幻滅されるのは困るな」


今後の夫婦生活に悪影響が出ては不味いと自重してあれ以上手は出していないのに。


いったいどのあたりを美化していて、何が不服だったんだろう。


ガンと華南の夫婦喧嘩をしょっちゅう間近で見ているこちらとしては、細やかな意思疎通と丁寧なコミュニケーションが何より重要だと痛いほど感じている。


反面教師がすぐ近くに居る分ちゃんと勉強してきたはずなのに。


目の前の事象にひたすら真摯に取り組んできていまの自分があると自負しているので、それを美化と言われるとちょっと反応に困ってしまう。


「幻滅というか・・・・・・・・・私、油断してましたね」


「ああ、そのこと。だから最近ずっとそっちに座ってるの?廊下側って冷えない?ホットカーペット入れようか」


多分、また何かが起こったら、今度は逃げ出すためにわざわざ廊下側に陣取っているんだろうけれど。


こちらも同じシチュエーションに二度も嵌まってくれるとは思っていない。


それなりに傾向と対策は立ててあるのだ。


伊達に学生時代からの付き合いを続けて来たわけでは無い。


結局のところ恵は、自分の自信のなさで身動きが取れなくなっていることが分かったのでそれだけでも重畳だった。


一人の世界にどっぷり嵌まって生きて来た彼女をこちら側へ引っ張り込むには、意識を自分自身から切り離して貰うのが望ましい。


この二か月本当に恵は少しも山尾に対して警戒心を抱いていなかった。


純粋な先輩と後輩という距離感をずっと保ち続けたのは確かだが、あの日確かに勢い任せであっても山尾は恵にプロポーズしたわけで。


当然、異性として見ていない相手にそんなことをする馬鹿はいない。


誤解だとか勘違いだとか必死に色んな言い訳を並べ立てていた彼女に半年という期限を設けたのも、こちらはじっくり腰を据えて向き合っていく覚悟があるということを示すためだった。


けれど、どれだけ時間が経っても恵のなかで山尾宗介という存在は、先輩以外の枠外に踏み出さない。


あのプロポーズも時間が経てばご破算になるとすら考えているようだ。


ああ、そういえば彼女だけは昔からそういう目を向けて来たことは無かったな。


だから、こうして先輩と後輩の仲が続いているのだ。


お互いそのラインから踏み込まないことが分かり切っていたから。


高校時代の山尾にとって、早苗と晴の一件以降恋愛は忌避すべきものになっていた。


だから、無意識のうちに恋愛感情を向けて来る視線は見ない振り、気づかない振りをしていたし、それがいつの間にか日常になっていた。


研修医時代、同期に告白された時も全く彼女からのアプローチに気づかなくて、敢えて無視されているのだと思って、逆に燃えたと言われた時には心底驚いた。


患者の表情や仕草には神経をとがらせているくせに、それ以外の事が綺麗に抜け落ちてしまっている自分は、医者になれなければ真っ当な人間になれないのではないかと思った時期もあった。


恋人じゃないのにキスなんてしてと詰られたらどうしようかと思ったが、あの夜恵は何も言わなかった。


玲子の後ろに隠れてひたすら自分を押し込めて目立たないように生きて来た恵は、私なんて、とすぐに口にする。


けれど、あの夜、瞳を潤ませて濡れた唇を震える指で確かめる彼女は十分すぎるくらい扇情的に映った。


お互いいい歳の大人だし、こちらは結婚するつもりでプロポーズだってしている。


恵が一つ頷いてくれれば明日には籍を入れたって構わないくらいの覚悟だって持っている。


つまり、あのまま朝まで過ごしても何も問題は無かったのだ。


伸ばした手を引き戻したのは、まだ彼女の口から肯定の答えを貰っていないことを思い出したから。


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