第32話 Beaver Moon-2


投げられた質問に、そんなものありません、と言いかけて慌てて引っ込めた。


自分が誰かの奥さんの立場に収まることを考えて来なかっただけで、これまでだって、頼まれてアラサー女性向けの雑誌に大人の恋愛ものを寄稿してきた事だってある。


「理想って言うか・・・・・・私の思い描く先輩の素敵な結婚生活はー・・・・・・しっかり先輩を支えてくれる、家庭的な素敵な女性を妻に向かえて、可愛い子供にも恵まれて、ご近所でも有名なおしどり夫婦って呼ばれるような」


黙って話を聞いていた山尾が、ビール缶を傾けて天井を仰いだ。


「それって恵の理想じゃないだろ。俺に相応しい、ってのは今は置いといてよ」


「え、でも考えた事無いです。先輩の結婚生活なら、もう何パターンか思い浮かべられそうだけど」


素敵な誰かの幸せな様子を描き続けることこそが、恵の唯一の夢で、理想だ。


物語の中でなら、いくらだって可愛いヒロインとカッコいいヒーローを描ける。


手が届かなかった色んな事は、文字にすることですべて消化出来て来た。


「そこに恵は入って来てくれないの?」


「だから・・・それは」


「設定云々は置いといて。俺は、自分の面倒は自分で見れるし、医院の仕事もいい人たちに支えて貰って上手くやれてるし、これからもやって行けると思ってる。大きく何かを変えようとは思ってないよ。今の日常に、もう少し恵との時間を増やしたいなと思っただけ」


「・・・・・・それが結婚って、ちょっと極端すぎません?」


「極端かな?」


「私には・・・物凄く大きい変化ですけど・・・だって、結婚したら苗字も変わるし、住む場所も変わるし・・・生活だって」


「俺が見過ごしているうちに、恵が遠くへ行くのが嫌だなと思って、提案したんだけど・・・性急だったとは思うから、春まで残り四ヶ月で検討してみてよ」


「・・・・・・私、そんな簡単に変わりませんよ。保守的だし、怖がりだし、新しいこと苦手だし」


「うん。知ってる」


目を伏せて山尾が笑う。


生徒会で前例にない提案がされるたび、びくびくして様子を伺っていた恵を思い出しているのだろう。


姉の玲子のように先陣切って走っていくような度胸はないのだ。


いつもみんなの後ろから、落し物がないか慎重に辺りを確かめながらついて歩くのが恵の役割だった。


けれど、未来は真っ新なのだから、誰かの足跡は探せない。


それでもどうにかここまでやって来られたのは、自分一人だったからだ。


失敗しても転んでも、他の誰も幻滅させたり傷つけたりせずに済んだからだ。


でも、人生を二人で歩くとなると、そうはいかない。


恵の荷物は誰かが背負うことになるし、誰かの荷物は恵が背負うことになる。


それが、途方もなく大変なことに思えて仕方ないのだ。


涼川恵で居る事に手一杯の自分が、誰かを守って行けるのだろうか、誰かを幸せに出来るのだろうか。


それは無理だと悩む暇なく答えが出せたから、一人でいいと結論付けて生きて来た。


「誰も恵に前を歩けなんて言ってないよ。一緒にって言ってる」


こんなに優しく諭されても、ほかに相応しい誰かを探してしまう自分が悔しい。


「それとも、やっぱり俺じゃだめ?」


飛び出した切り返しに、恵の頭は真っ白になった。


「せ、先輩が駄目だったら世の中の男の人の大半は駄目だと思います!」


「・・・・・・なにそれ」


一瞬目を丸くした山尾が、喉を震わせて笑い出す。


恵が彼を選ばなかったことで、彼が自分を卑下することだけは避けなくてはいけない。


だって山尾にはなんの罪も無いのだから。


「だから、先輩が駄目なんじゃなくて」


「じゃあ俺でもいいってこと?」


「いいですけど、私じゃ駄目です」


「・・・・・・あ、そこに戻るんだ・・・・・・なるほど」


納得出来たという風に頷いた山尾が、ビール缶をテーブルに戻してこちらに向き直る。


「俺の事が好きとか嫌いとか以前の、恵自身の問題ってことか・・・・・・うん、間違えてたな」


ポツリと呟いた彼が、まだ赤みの残る頬をそっと指の腹で撫でた。


怪我の具合を確かめるそれとは違う触れ方に肌が粟立つ。


この数瞬で何かが変わったと気づいた時には、目の前に彼が迫っていた。


「え、間違・・・っ・・・・・・んぅ!?」


問いかける言葉を封じ込めるように唇を塞がれる。


柔らかく表面を食んだそれが、上唇に強く吸いついて舌先が軽く内側の粘膜をつついた。


まさか山尾にそんなことをされると思わなくて、喘ぐように唇を開けば、狙いすましたように悠々を舌先が潜り込んで来る。


後ずさった身体がソファにぶつかって、彼の手のひらが背中を抱き寄せて来る。


力の抜け落ちた指先をそっと包み込んだ後で、その手で項を撫でられて、彼の思惑通りに仰のいてしまう。


久しぶりに誰かの熱を口内で感じた。


優しく舌先を辿る彼の熱は、誘いかけるように頬裏を擽って舌裏まで絡め取る。


僅かに唇をずらして恵が息を吸うとまた舌を絡ませて来る。


とろりと思考がたわんで、緊張が抜けて行く。


背中を撫でる手のひらは規則的で、恵を慰めるようでも宥めているようでもあった。


触れた吐息が、絡ませた舌の熱が、心地よさに飲み込まれてしまった恵自身の状況を雄弁に物語っている。


そっと唇を解いた山尾が、伺うように額をぶつけて囁く。


「・・・・・・どう?嫌だった?」



いまやっと確信した。


彼は、温厚で思慮深い、策士だと。




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