第31話 Beaver Moon-1
「俺の周りに姉妹っていないからわかんないけど、ケンカでそんな頬腫らすものなの?」
お邪魔しますを言うより先に伸びて来た手のひらで、昨夜からの赤みが残っている頬を確かめられて、恵は情けない笑みを浮かべた。
「先輩も知ってるでしょ、私の姉は涼川玲子なのよ」
この説明で頷いてもらえるのは、涼川玲子のすごさを知っている人間だけである。
「納得できるような出来ないような・・・口の中切れてないね?」
「反射的に歯を食いしばったから平気です」
何かにつけてグズグズと文句を零して動こうとしないのは恵のほうで、意気地なしの妹を激励して窘めて、時には力技でどうにかして来たのはいつも姉の玲子だった。
自分とは真逆の姉にどこか憧れを抱いていたこともあるが、姉の歩いた後をついていく方が臆病者としては楽だったので、同じ高校を選んだのだ。
お姉ちゃん、と洋服の裾を引っ張れば背中に庇って貰えることが分かっていたので。
本当に、どうしようもないほど涼川恵は根性無しなのだ。
自分で自分に愛想が尽きそうになる。
「・・・それ、原因ってさ」
「あ、大丈夫です。お気遣いなく。私にほとんどの原因があるので」
そこだけはきっぱり言っておかなくては、優しい山尾は気に病むに違いない。
きっかけは山尾だが、昨夜のケンカの原因は、意気地なしの恵にある。
それを分かっていたから、引っ叩き返さなかった。
それをしたら、仕返しプラス八つ当たりになると思ったからだ。
お尻を叩かれて、背中を蹴りつけられて、やっと一歩踏み出せるどうしようもない自分。
そして、そんな自分を受け入れてくれるのはどこの誰か、もう恵にも分かっていた。
こんな風に山尾に甘えるのは初めてのことだ。
これでも一応節度ある先輩後輩の関係を保っていたので、姉妹喧嘩の果ての逃げ場所に彼の家を訪ねようだなんて、これまでの恵だったら絶対に思えなかった。
山尾は顔を顰めたけれどそれ以上は何も言わずに恵を家に上げてくれた。
たたきごぼう、ニシンと大根の煮物、牛すじの煮込み、鶏つくね。
これまた美味しそうな総菜をテーブルに並べて、揃って頂きますと手を合わせる。
お酒は飲まないと進言したので、山尾は変わりに番茶を用意してくれた。
「家に居るの気まずいなら、うちに居ればいいけど?家出先なんて、他に見つからないだろうし」
「先輩・・・・・・私に頼る友達がいないって思ってます?」
「そんな事無いけど、生徒会のメンバー既婚者と県外住みばっかりだろ」
「うっ」
「恵の性格からして、既婚者の友達の家まで押し掛けるなんて絶対出来ないだろうし」
「うっ」
「そのまま居着いてくれても、いいよ。俺としてはそのほうが嬉しい。部屋余ってるしね」
確かに5LDKは独り暮らしには十分過ぎる広さだ。
二人暮らしにしたって贅沢すぎる。
むしろこういう家は子供がいる家族が暮らすべきなのだ。
家族・・・・・・
それまで一度も考えて来なかったパワーワードが飛び出して、一気に心拍数が跳ねあがった。
近くに小児科が無いので、山尾医院には子供も多く訪れる。
チビッ子たちからも若先生は大人気だ。
きっと彼は、優しくて理解のある穏やかな父親になるだろう、そしてその隣には・・・
駄目だ、やっぱり思い描けない。
「・・・・・・それは、ルームシェア的な?」
「え、このふた月それなりに一緒に居たけどまだそうなるの?」
「え、だって」
「ルームシェアじゃなくて、それなら同棲じゃない?」
「・・・・・・同棲」
「唐突だったことも分かってるし、恵にとってはまったく予期せぬ事態だとも思うから、まあ、最初はそれでもいいよ。でも、結婚前提の同棲で」
「私、家出するつもりないですし・・・お姉ちゃんともちゃんと和解・・・というか、まあ、話し合いはしたので・・・あの、そんなご心配には・・・」
美味しいご飯と寝る場所があれば、パソコンさえあればどこででも原稿は書けるし、残念ながら連載を抱えているわけでもないので、そうしょっちゅう仕事は舞い込んでこない。
いつでも身軽に動ける状況にいることを山尾も理解しているから、こんな軽い雰囲気で誘いかけて来るのだろう。
が、ここで流されてしまったら、本当にそのまま山尾家に居着いてしまいそうで恐ろしい。
それが彼の狙いだと分かっているからさらに恐ろしい。
「家出じゃなくてもいいよ。俺が、恵に結婚しないかって言ったのは、付き合うよりは、結婚したいなと思ったからで、いまの自分を俯瞰で見た時、隣にいるのは恵が一番しっくり来るなぁと思って、だから一緒に居るなら結婚したいなって結論に至った」
「・・・・・・先輩の言うしっくりと、私の言うしっくりは、なんか違う気がするんですけど・・・」
「恵の思い描く結婚生活ってどんなの?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます