第18話 Buck Moon-2
「慣れてますから!」
それではいざさらば!とそのまま受付の愛果に頭を下げて入り口に向かおうとした矢先、目の前の自動ドアが開いた。
「山尾ー、大晴どうだった!?」
白衣姿のまま飛び込んできたのは姉の玲子だ。
待合室で立ち尽くす妹と抱えられたままの息子、そして目を丸くしてこちらを見つめる後輩を確かめて、ほっと肩を撫で下ろす。
「あ、大丈夫みたいね!良かったわぁ!ごめんねー山尾、ギリギリに駆け込んで」
つっかけを脱いでスリッパを履かずにそのまま待合室まで入って来た玲子が、ひょいと慣れた様子で大晴を抱き上げる。
腱鞘炎にも負けず生まれた時から一人息子を抱え続けた彼女の腕は、恵の数倍肉付きが良くて逞しい。
「めぐがへばって大晴背負えなかったらと思って来たけど・・・ちょうどよかったわね」
ぱちんと彼女が片目を瞑ったのは、恵にではなく山尾に向けてだった。
姉が来てくれたことに安堵して、痺れ始めていた腕をさすって、それじゃあお世話様でしたと改めて山尾に頭を下げる。
と、伸びて来た腕に手首を取られた。
「涼川先輩」
「んー?」
入り口でつっかけに足を入れながら玲子が、のんびりと問い返す。
間髪入れずに山尾が言った。
「妹、置いてって」
一瞬何を言われたのか理解出来なかった。
「は?」
人身御供同然に差し出されたのだと気づいて泡を食ったがもう遅い。
ぽかんとした恵の声を打ち消すように、玲子がはきはき答えた。
「オッケー!任せた」
「え、ちょ、お姉ちゃ・・・」
ちっとも良くないし何がオッケーで任せたなものか。
山尾に対する信頼度は、高校時代がちっとも揺らいでいないしむしろ右肩上がりを続けているけれど、今日この時ばかりは話は別だ。
まずい、物凄くまずい、どうにかしなければ。
それだけは分かっているものの、山尾に掴まれたままの腕は多少力を込めたくらいじゃ振りほどけない。
彼がこんな風に力技に出て来るのは初めての事だった。
目を白黒させたままの恵を自分の方へ引き寄せて、山尾が穏やかにありがとう、と言った。
「先生、それだけ脱いだら後はこっちでやっときますから」
診察室から出て来た森井が、山尾の白衣を指さして手のひらを差し出す。
受付の愛果だけが愕然と恵たちを見ていた。
・・・・・・・・・・・・
二人だけになった待合室で、愛果がレジ閉め作業をしながらポツリと言った。
「若先生が・・・幼馴染の人たち以外で、女の子呼び捨てにするのって・・・涼川さんだけなんです・・・あとはみんな、ちゃん付けかさん付け・・・」
「ああ・・・そういえば・・・たしかにそうねぇ・・・」
気にしたことが無かったが、山尾の元同級生の女性が子供を連れて来た時も苗字で呼んでいた気がする。
ああ、そういうところから気になるのね、となんとも切なくなった。
愛果が高校の後輩だと伝えても、彼は相変わらず”長谷さん”呼びを変えようとはしない。
そこには穏やかだけれど確かに引かれた境界線があった。
「涼川さん、高校の時から全然変わってないんですよ・・・ちゃんと自分を持っててブレなくて・・・化粧っ気が無いのもあの頃のまま・・・必死に流行を追いかけてた昔の自分が・・・ちょっと悲しくなるんです・・・若先生は・・・・・・ああいう芯の通った女性が好きなんですね」
私には無理だな、と呟いた愛果が、帳簿を書き終えて、手持ち金庫の蓋を閉じる。
「好みは人それぞれだもの。でも、愛果ちゃん。あなたうちの患者さんの間で絶大な人気を誇ってるのよ。知らないの?」
「・・・ここの患者さんはみんな優しいから」
「うちは若先生もああいう雰囲気だし、お年寄りも多いから、愛果ちゃんみたいな女性は重宝されるのよ。胸張りなさいな。そりゃあ、若先生はこの辺りじゃ一番の優良物件だけど、若先生以外にも素敵な人は沢山いるでしょう?」
「私、もう30過ぎてるんですよ・・・?」
「それがなあに?私なんてもうすぐ50よ?いくつだから駄目なんて決まりはないんだから。自分の魅力に気づいて胸を張っていたら、そのうちいい人に巡り合えるわよ」
「・・・・・・まずは、涼川さんと気さくに喋れるようにならなきゃ駄目ですね・・・」
愛果が勤め始めてひと月ほど経った頃に、彼女の気持ちには気が付いていた。
残念ながら、父親からの引継ぎでいっぱいいっぱいだった山尾は全くその視線に気づいていなかったようだが、スタッフ全員に平等に低姿勢で対応する若先生の好感度は上がって行く一方で、愛果の熱も上がって行く一方だった。
森井も、最初はこの二人が上手く行くのかもしれないと思っていたのだ。
その予見に別の人物が飛び込んできたのは、愛果が働き始めて一年ほど経った頃の事。
今日のように甥っ子を抱えた恵が医院に飛び込んできた時の、山尾の対応を見て、あ、これは矢印の方向が違うなと気づいた。
いつも穏やかで紳士的な彼が、患者である大晴よりも、恵に対してより一層心を砕いて接しているのを目の当たりにしたせいだ。
そして、生まれた予感は、月日が流れるにつれ確信に変わって行った。
「クラスメイトだったんでしょう?久しぶりーってざっくばらんに喋ったりはしないの?」
「・・・仲のいいグループが違ってたし・・・私が、すごくあの頃より変わってしまったから」
溜息を飲み込んだ愛果が、無理やり笑顔を作って森井を見つめ返した。
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