第19話 moon phase 14
「ほんっとちっともお店にも顔出さないしさぁ、メッセージはことごとく既読スルーだし・・・」
市場の前の道をのんびりと歩きながら、早苗が盛大に不満を漏らした。
感情が消えていた時代を間近で見てきたせいか、彼女が昔のように素直に怒ったり笑ったりすることに心底ホッとする。
それは、一緒に歩いている幼馴染全員が思っている事だろう。
「いや、うん・・・ほんとごめん」
仮眠室のベッドに倒れ込む直前にスマホを見られたら良い方という生活はやっと抜け出せたのだが、気を抜くとすぐにチェックしなくてはならない論文や症例が溜まっていくし、今は独り立ちに向けて一つでも多くの現場を見ておきたいので、どうしてもプライベートは疎かになる。
それら全部を踏まえたうえで、隣に並ぶことを望んでくれた年上の彼女には、ただもう感謝しかない。
だからといって、ほかのことがおざなりでいい、というわけではないのだけれど。
謝罪を口にした山尾を見上げて、すっかり酒屋の奥さん兼母親が板についた
「まあねー、フェローがすんごい大変っていうのは、医療ドラマで知ってるけどさ」
会うたび仕入れたばかりの医療用語を並べて、実際の現場との相違点について話したがる彼女の最近のお気に入りは、女医が絶対失敗しないアレだ。
「理解が速くて助かるよ」
「それにしたってちょっと不義理すぎやん!?」
いまだ納得できないと言った様子の早苗に向かって、山尾が出来るだけ柔らかい声で伝えた。
「遅れて晴の墓参りはしたよ」
毎年全員の予定を合わせて揃ってお墓参りに行くようにしているのだが、今年はどうしてもスケジュールが合わず、数週間遅れで一人で晴に会いに行った。
「それは当然だけどー・・・」
「未来の山尾先生は死ぬほど忙しいんだよ、な、山尾っち」
1ダースのビール瓶を軽々持ち上げてしまう逞しい腕でバシバシと背中を叩かれて、山尾は相変わらず力加減を知らないガンを振り向いた。
子供が生まれた時は、本当にあんな小さい生き物に触れるのかと不安になった彼も、今やすっかり父親である。
「忙しいのは事実だけど、ごめん、不精したのは完全に俺が悪いよ」
「分かってんじゃないの!んで、次の休みいつよ?」
「休みはあってもこっちまで戻って来れないよ」
「ええええーなにそれー!」
「でも、メッセージの返事はするようにする・・・たぶん」
「絶対じゃないんだ」
「ほんとごめん。タイムラグは絶対出来るから、許して。院内にいると、もう朝か夜かが分かんなくなるんだよ」
空調完備の病院は季節感もなくなるし、時間の感覚も麻痺してくる。
夜間診療の対応をしているうちに朝日が昇るのなんてしょっちゅうだ。
「今ちょうど夏休み前で、学校もバタバタしてるから、颯太さん帰り遅いのよね?」
このまま一生独り身かと思われていた早苗が、伴侶を得てくれたことはここ数年来で一番嬉しい出来事だった。
彼女を引き受けてくれた井上颯太には感謝しかない。
小学校教諭をしている颯太は、山尾たちの恩師でもある浜・近コンビとも知り合いなので、長期休暇の際にはそれぞれの家族と一緒に遠出する事もある。
こんな風に誰かの家族と一緒に出掛けるようになるなんて、本当に時が経つのは早い。
「ああそっか・・・もう夏休み来るんだ」
「別に颯太がいないから山尾っちの不精を怒ってるわけじゃないからね?幼馴染と旦那完全別枠で永久保存だからそこんとこよろしくね。んで、返事くらいしろ」
「うん。分かったよ」
子供が居て、自分の仕事と生活がある彼女から頻繁にメッセージが届くことは無い。
が、山尾が自宅に戻って医院に顔出す度に上手く時間を作ってくれる彼女の気遣いと優しさに甘え切っている自分に気づく。
こんな風に誰かに甘えるのは初めてで、多分、今の自分がフェローでなかったら、勢い任せに彼女に気持ちを吐露する事は絶対になかったはずだ。
年齢や立場を考えても、父親の医院で勤めている女性と交際するなんて、これまでの感覚じゃ絶対に無理だった。
人生には、思わぬ転機がやって来るのだ。
「今日はリナリア閉めて貰うようにお願いしてるから、夜中まで付き合って貰うからね!」
貸し切り状態の店で待つマスターの顔を見るのもずいぶん久しぶりだなと思いながら頷いたら、少し先の角から歩いてくる女性の姿が目に入った。
すぐに恵だと気づいた。
またこんな一人でふらふらしてる・・・
「恵!」
彼女が気づかず行ってしまう前に呼びかけたら、弾かれたように彼女が顔を上げた。
「え、誰?」
「さあ?知り合い?」
早苗と華南の質問に答える前に、恵が挨拶を口にした。
「山尾先輩、こんばんは。久しぶりですねー。こっち戻って来てたんですね」
ますます多忙を極めるようになった山尾が地元に帰って来ることはほとんど無くて、大学病院が我が家となってから数年、恵とは年に数回飲み会で顔を合わせればいいほうだった。
「ごめん、後輩なんだ。ちょっとしゃべってから行くから、先にお店行っといてくれる?」
返事を待たずに恵のもとに駆け出す山尾に、早苗と華南とガンの視線が突き刺さる。
「あーうん、分かった、後でね」
「山尾っちがうちら以外で女の子呼び捨てにするの初めて聞いた」
「あー・・・ほんとだな」
三人の驚いたようなやり取りに、振り返って高校時代の事を話すのは面倒過ぎて、当然無視した。
「またこんな時間にフラフラして・・・・・・どこ?コンビニ?まさか散歩とか言わないよな?」
「あー・・・うん。コンビニです」
これは絶対に嘘だ。
「あのさ、夜の散歩はやめなって前も言ったと思うけど?」
エッセイの連載が終了した後、しばらくしてから短編小説を書き始めた恵は、時々こうして夜の一人歩きをするようになった。
前に会ったのは終電間近の駅前で、あの時も苦言を呈したはずなのだが。
「先輩、大丈夫、まだ21時だから。余裕です」
「いやでも心配するよ。コンビニ行こう。あれだ、恵の好きなアイス買ってあげるよ」
「アイス買ってやるから早く帰れってことですか?さっきの・・・幼馴染さんたちですよね?よかったんですか?」
振り返って早苗たちが歩いて行った方向を確かめる恵の腕を軽く引っ張る。
「気にしなくていいよ。どうせこの後何時間も一緒だし。恵さえ良かったら一緒に来てもいいけど?」
「いやー・・・結構です」
「うん、そういうと思った」
また今度ね、と苦笑いを零せば、恵がホッとしたように息を吐いた。
卒業してから何年も経っているのに、すっかり大人になった恵を前にしてもやっぱり心配が先に出てしまうのは、玲子からのくれぐれもよろしく、が未だ残っているせいなのか。
それとも、山尾医院で待っている彼女とも、幼馴染たちとも違う、後輩という枠のなかで、一番身近にいるのが恵だからなのだろうか。
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