第9話 Flower Moon-2
彼には不似合いな荒唐無稽過ぎる暴挙に出たのは、やっぱり看護師のことを伝えたせいなのだろうか。
山尾は、自分が最後の踏ん切りをつけられなかったことで、母娘を傷つけてしまったという罪悪感に囚われ続けていた。
だから、彼女が前を向いて幸せに生きていることを伝えれば、彼も罪悪感から解放されるのではないかと思ったのだ。
そもそもそこから読み誤っていたのかもしれない。
山尾は今もまだ彼女の事を思い続けていて、出来る事ならやり直したいと、そう思っていたのかもしれない。
もしそうなら、恵の余計な一言は間違いなく彼の胸を深く抉ったはずだ。
あのプロポーズもどきは、本当はあの時別れてしまった彼女に言いたかったセリフなのではないか。
物凄くとんでもない過ちを犯してしまったかもしれない。
衝撃が大きすぎて逃げるように自宅に駆け込んでしまった恵に、山尾はなにも言わなかった。
口から出たセリフに彼自身が驚いただろうし、多少なりとも酔っていたはずだ。
もう少し恵に余裕があれば、上手な慰めのセリフを返していつものように別れられたかもしれないけれど、全く予想外の発言に見事に頭が真っ白になってしまった。
「山尾くんとケンカでもした?・・・って、するわけないか。めぐちゃんと山尾くんだもんな」
「珍しく先輩が酔ってたみたいで・・・私が上手く対応できなくて・・・その、ちょっと気まずいというか・・・」
「え!?気まずくなるようなことされたの!?」
ぎょっとなった義兄が気色ばんだ声を上げた。
慌てて彼の腕を叩いてそんなまさかと首を横に振る。
「あるわけないでしょ!違うから、ちょっとした言葉の行き違い!」
「ああ・・・それならいいけど・・・まあ、でもきみらもいい大人だしさ、ちょっとした過ちがあったっていいじゃない?」
そういえば、姉夫婦の交際のきっかけは、飲み会の帰りに酔っぱらった二人がちょっと寄り道をして、そのまま朝まで過ごしてしまったことだった。
これももしかすると、玲子の巧妙な計画のうちなのかもしれないけれど。
ニヤニヤと面白がるようにこちらを見下ろして来る義兄をねめつける。
「いい大人なんだから、過ち犯したらだめでしょ」
「めぐちゃんも、山尾くんも、ちょっと生真面目過ぎるよ?」
そうなのだ。
山尾は学生時代もいまも、誠実で真面目で思慮深い。
絶対に思い付きでプロポーズもどきを零すような男ではないのだ。
そんな彼を、自分の軽はずみなお節介で追い詰めてしまったのだと思うと、やっぱりもうしばらく顔を合わせられない。
「山尾先輩が誠実で真面目なのは、昔からなの。とにかく、なにか悩んでるはずだから、既婚者としてこう、どーんと悩み相談を承ってあげてくださいっ」
どうかお願いします!と両手を合わせれば、義兄は鷹揚に頷いて、時間作って誘ってみるよと返事をくれた。
「はーい、じゃあここからは歯のお掃除して貰いますねー。お願いします」
診療台から離れた玲子が、マスクを外して歯科衛生士に短い引継ぎのあと、視線をこちらに向けて来た。
受付で雑談中の夫と妹を見つけて、思い出したように手を挙げる。
「あ、そだ、めぐー」
「はい?」
凭れていたカルテ棚から背中を離して、玲子に向かって向き直る。
猫背を再三注意されてきたせいで、姉の前では自然と姿勢を良くしてしまうのだ。もはや刷り込みである。
「あんたと連絡取れないって山尾が言って来たけど?」
「ひえっ!」
大急ぎで口を手でふさいだが、悲鳴は漏れた後だった。
義兄がこりゃまずいなと察知して、一足先に二階へと消えて行く。
「なに、なんかあったの?」
「べべべつになにも!?スマホの調子悪いって言ったでしょ、それだけ」
「あんたが元気にしてるのかって気にしてたから、いつも通り手伝ってくれてるって返しといたけど、大人げないわねぇ、気まずいからって電源切るなんて」
まるであの夜の出来事を見ていたかのようなセリフに冷や汗が流れた。
そもそも、玲子が婦人科で看護師の田中と出会ったなんて言わなければ、余計な気を回すことも無かったのに。
歯噛みする思いで、どうにか姉からの尋問を逃れようと必死に思考をフル稼働させる。
「飲んだ帰り道でちょっと・・・言い合いになって・・・でも、別に・・・」
「山尾があんたに何言ったのかは知らないけど、あの男ザルどころか枠だからね。あんたと同じペースで飲んだくらいじゃ酔わないから」
「だから?」
「言われたこと、ちゃんと考えなさいってことよ」
ぽんと恵の肩を叩いた玲子が、カルテ入力のためにタブレットに視線を落とす。
言われたことをちゃんと考える、なんて、一番いまの自分に遠い未来だ。
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