第8話 Flower Moon-1
「お大事にー。お気を付けてー」
治療を終えて、お世話様でしたと挨拶をして医院から帰って行く親子を受付から見送った後、恵は隣に立つ義兄を見上げた。
子供の治療はいかに泣かさず、痛がらせず、時間を掛けないかが重要なのだが、その点この義兄は腕も人柄も完全に小児歯科向けだ。
歯の治療をしに行くのではなくて、面白くて優しい涼川先生に会いに行く、という感覚を持って貰う事で、嫌われがちな歯医者の敷居をぐっと低くしていた。
子供の治療を行う際は施術前後に保護者への説明を行うので、毎回こうして受付に並んでお見送りをすることになる。
小児歯科に力を入れている温和で優しい義兄と、審美歯科に力を入れている頼もしい姉のおかげで、涼川歯科医院の診療報酬は右肩上がりを続けており、最近では口コミで隣町からも患者が訪れていた。
最近はSNSで色んな情報が拡散されてしまうので、慎重に誠実にを常に意識しなくてはならないが、幸いこの歯科医院にやってくる患者たちは皆穏やか人ばかりだ。
玲子ちゃん、玲子ちゃん、と交際中から常に姉の後ろをついて行く、どちらかといえば消極的なタイプだった義兄への信頼は、実家への挨拶当初こそ低かったけれど、文句ひとつ言わず入り婿になって涼川歯科医院の夫婦経営を始めてからは、両親も恵も、よくぞこの男を選んだと姉の人選を絶賛し続けている。
せっかちで常に目的に向けて走っていないと気が済まない上昇志向の強い玲子を上手くコントロールしつつ、率先して家事育児をこなして、将来的には両親の面倒まで見てくれる腕のいい歯科医師なんてそうそう見つけられない。
交際のきっかけになったらしい合コンで、三男と聞いた時点から君に決めた!とあれこれ策を練ってアプローチを開始したというから、玲子の手腕もなかなかのものだ。
「先生の午前の診療はこれでラストです。お疲れ様でした」
「ありがとね。玲子先生はいまの患者さんが最後かな?」
診察室に視線を向けて、最愛の妻の施術が終わるのを待とうかどうしようか悩んでいる様子で、義兄がいい具合に緩んできた丸いお腹を大きな手のひらで撫でた。
「はい、そうです。お昼お母さんが焼き飯作ってましたよ。お先にどうぞ。今の患者さん入られたばかりなんで」
「じゃあそうさせて貰おうかな・・・わー嬉しいなぁ。義母さんの焼き飯なんか僕が作るのより美味しいんだよね。やっぱりガス火の中華鍋のおかげかなぁ」
二階が自宅になっているので、涼川一家は大抵順番にお昼を食べに上がり、自宅が近いパート勤務の歯科衛生士と歯科助手はそれぞれ夕飯の支度がてら帰宅していくのが常だ。
それじゃあ早速と二階に続く階段に向かおうとした義兄の腕を掴んで、恵はちょっと、彼を引き留めた。
「お義兄さん、ちょっとお話がっ」
「うん?どうしたのめぐちゃん」
温厚な印象を与える垂れ目を丸くして、義兄がこちらを振り返った。
まだ玲子の施術は続いているので受付を空には出来ない。
仕方なくカルテ棚の端に隠れるようにして、声を潜めた。
「あのう・・・時間がある時でいいから、山尾先生を飲みに誘ってあげて欲しいの」
恵からの唐突なお願いに、義兄がきょとんと首を傾げた。
玲子との結婚後、大晴が生まれるまではたびたび4人で飲みに行っていたが、大晴が生まれてからは下戸の彼が留守番兼子守りをすることが多くなっていた。
「山尾くんなにかあった?」
なにかと言われても困るのだが、まあ、なにかはあったのだろう。
だからあんな完全に酔っぱらっているとしか思えないような爆弾発言を恵に向かって落っことしたのだ。
「わかんないんだけど・・・なんか悩んでることがあるみたいで・・・たぶん、お姉ちゃんより、お義兄さんのほうが、相談しやすい気がするから」
「それはいいけど・・・それってもしかして、めぐちゃんがスマホの電源ここ3日ほどオフにしてることと関係ある?」
「・・・うっ」
スマホの調子が良くないから、しばらく電源入れませんと出勤して来た姉夫婦に伝えたのは、彼から酔っ払いプロポーズもどきが飛び出した翌朝のこと。
幸い年中テレワークの恵なので、原稿依頼のやり取りはメールかテレビ会議がメイン。
学生時代の友人たちのほとんどは、子育て真っ最中でメッセージを送っても返事が翌日になるなんてざらなので、二、三日音信不通になってもなんら問題はない。
姉夫婦には毎日こうして歯科医院で顔を合わせるし、外出先から両親が連絡を入れて来るのは大抵医院の固定電話だ。
恵のスマホに用事があって連絡を入れて来るのなんて、今のところ山尾一人くらいのものだった。
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