第10話 Pink Moon-1

「そろそろさぁ、うちのめぐ、どうにかしようと思ってんのよね」


「玲子ちゃん、ほら、そういう言い方はちょっと」


三人で飲む時に使う和来屋わらいやの二つしかない座敷席の奥で、玲子が冷酒を煽りながらそんなことを言った。


追加の枝豆を運んで来た岡本が、苦笑いを浮かべて窘めている。


玲子が妹に対してこんな言い方をすることは珍しくないが、どうにか、の意味が気になった。


四国へ旅行に出掛けた両親を、急遽バスターミナルまで迎えに行くことになった恵が不在の飲み会は久しぶりで、玲子のペースに合わせて飲んでいるうちに、久しぶりに酩酊感を覚えていた。


彼女の夫は下戸なので、眠ってしまった後は電話一本架ければすぐに迎えにやって来る。


駅北のマンションで暮らす玲子一家は、結婚当初から早めに賃貸を引き払って、二世帯住宅を建てたいと繰り返し口にしていた。


父親が一人で診ていた頃とは違い、夫婦の歯科医二人体制になってから予約患者数も増えて、小児歯科や審美歯科まで幅広く対応している涼川歯科医院の評判はすこぶる良い。


現在、涼川歯科医院の二階に両親と一緒に暮らしている恵は、二世帯住宅の話が出るたびその頃には私だって家を出てます、と豪語しているが、彼女のバイトの収入と原稿代ではとてもじゃないが一人暮らしなんてまず無理だ。


本人もそれを分かっているので、この話題が出るたびまだ先の話でしょと話題を畳んでいた。


彼女の両親も、姉夫婦も甥っ子も、行き場所のない恵を追い出そうなんて思ってはいないだろうが、長い目で見て次女の将来が不安になる気持ちは、まあ理解できる。


アラサーで社会人なしの恵にいまから会社員は難しいだろうし、パソコンさえあれば仕事が出来る自由業と言えば聞こえは良いが、ベストセラー作家ではない彼女の原稿料なんてたかが知れている。


「どうにかって・・・涼川先輩、恵のこと追い出すんですか?・・・冗談ですよね?」


玲子の夫も甥っ子も、恵のことを気に入っているし、家族仲も決して悪くはない。


彼女の両親も娘のことを案じつつも、無理に彼女を外に出そうとはしていなかった。


この辺りの住宅街にはハイツやマンションは一つもない。


庭付き駐車場二台以上の戸建てがほとんどの片田舎で一人暮らしなんて不可能だ。


山尾の言葉に玲子がくっきりとした眉を持ち上げて鼻白んだ。


「追い出すって人聞き悪いこと言わないでよ。んなことするわけないでしょ。旦那の大学の同期に何人か見込みありそうなのがいるのよ。ほら、めぐってあの通り引っ込み思案だし、仕事も在宅だし、とにかくそういう出会いが何もないでしょ?うちの歯科医院に来る独身の患者さん振ってみても結構ですの一点張りだしさぁ・・・」


「独身の患者さん振ってたんですか・・・」


これは初耳である。


玲子なりに妹の行く末を思って示唆したのだろうが、恵の性格を考えれば交際に発展するわけがない。


「いや、ほんとは、あんたの方がこっち詳しいし、よさそうな人探してって言おうかと思ってたんだけど・・・それはさすがに、めぐが嫌がるかなぁって」


細やかな気遣いが苦手な玲子も、それなりに色々と考えていたようだ。


実際、恵に誰かいい男を探せと言われたら、ちょっと戸惑っていたかもしれない。


ぐるぐるぐい飲みの縁を指でなぞりながら、玲子が目を据わらせる。


「ほら、うちら結局10年以上こんな感じだし?あの子にとっちゃあんたが唯一の外界との接点みたいなところあるでしょ?・・・・・・あと・・・あんたの気持ち、先に訊いとかなきゃと思ってさ」


彼女に、自分のぼやけたままの気持ちを零したことはなかった。


当然、恵にも匂わせたことは無い。


無意識に早苗が次の幸せを見つけるまでは、と色恋事を意識の外に外してから数年、覚悟していた医大生の生活は想像以上にハードで、研修医になってからはプライベート皆無の時期が長く続いた。


華南とガンの家庭も落ち着いて、早苗も結婚して、大も友世もいい相手を見つけて、短すぎる睡眠時間と限界突破した疲労感でたどり着いた久しぶりの我が家で、顔馴染みの看護師の顔を見た瞬間、一気に心が緩んで、同時に満たされた。


彼女がいくつも年上であることも、離婚歴があって子供を一人で育てている事も、なんの障害にもならなかった。


過密スケジュールの合間を縫って穏やかで満たされた時間を過ごせば、摩耗していた心は緩んで解けて行く。


研修医の苦労を誰よりも理解してくれている彼女の存在は大きくて、そこに甘えてしまっていたのだ。


だから、彼女から唐突に将来という単語を切り出された瞬間、夢から醒めた。


こちらにとっては寝耳に水の出来事。


けれど、彼女のなかではずっと考えていた出来事。


明らかになった温度差は簡単に埋められるわけもなく、当然のように別れは訪れた。


自分のことしか見えていなかった。


ようやく手にした真っ新な未来を、歩く事しか考えていなかったのだ。


誰かを傷つけたのだとはっきり自覚した後の後悔は、別の未来を夢見る選択肢を容易に奪って行った。


一人前の医者になって、父親の跡を継いで、医院を守る。


それだけを考えて、ひたすら邁進してきた。


誰も内側に引き入れない生活は、割り切ってしまえば楽だったし、何より覚えることとこなすことでそれ以外の事に意識を向ける余裕なんてなかったのだ。


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