第26話 moon phase 17
「うわ・・・ほんとに喫茶店だ」
海沿いのログハウスを前に、地元でコーヒー飲めるなんて、と呟く恵に手招きして勝手知ったるリナリアの店内へと誘う。
勤務医の仕事が落ち着いて来て、まとまった休暇が取れるようになって地元に戻ったタイミングと、恵のスランプが重なってくれて良かった。
良かった、という言い方は本当は良くないのだろうが、一人で悶々とふさぎ込むよりはいいだろうから、やっぱり良かったということにしておく。
幼馴染たちの間では当たり前になっているたまり場に、友人を連れて行くのは初めての事。
当然、玲子にも店の事を話したことはなかった。
隠していたわけではないが、マスターは利益度外視の完全趣味経営なので、一気にお客さんが増えるのは困るし、このまま静かに地元民に愛されてほしいという願いもあって、この店に誰かを伴ったことはなかった。
そういえば、別れた彼女とも、此処に来たことは無かった。
「亡くなった友達のお父さんがマスターしてるんだよ。入って」
「へえー・・・・・・あ、こんにちはー」
恵を先に通したところでカウンターの奥からマスターが声をかけてくれた。
相変わらずの丸眼鏡と、年齢と共に増えた皺をさらに深くして、久しぶりの息子の友達の帰還に頬を緩める。
「いらっしゃ・・・・・・あれ、山尾くん。随分顔見ないと思ってたんだよ・・・こっち戻って来たの?」
「ご無沙汰してます。久しぶりの休暇で戻ったとこ。マスター、彼女は涼川歯科医院のお嬢さん」
「初めまして。次女の恵です」
「ああ、涼川歯科医院の・・・あ、じゃあ、お姉さんが歯医者さんの?」
「はい。そうです。姉夫婦が歯科医をしてます」
「いやーそうかー・・・へえー・・・まさか山尾くんと友達だったなんて・・・ああ、好きなところに座ってね。コーヒーでいいかい?えーっと恵ちゃんは、メニュー見た方がいいかな?」
山尾が女性同伴でお店にやって来たことに驚きを隠せないマスターが、珍しく慌てた様子でメニューを取り出した。
此処に来る道すがら、お勧めのブレンドを飲ませたいと伝えてあった。
「まずは晴ブレンド飲んでもらわないと。恵、何処座る?」
「えーっと・・・・・・」
いま現在の鬱屈とした気持ちに導かれるように、山の手の奥の席に向かおうとした恵の腕を掴んで引き留めた。
これ以上思考を追い詰めてどうするのか。
「せっかく海辺まで来たんだから、海が見える席のほうがいいでしょ」
「あー・・・はい」
論文に行き詰った時のストレス発散方法は、ひたすらに眠って思考回路を一旦クリアにすることなのだが、同じ方法が作家の彼女に当てはまるのかよく分からず、まあ家に引きこもっているよりはいいだろうとこうして誘いだしたわけだが。
恵が物珍しそうにログハウスの室内を見回す。
晴の母親が生前集めたカントリー風の小物がいまだに飾られていたり、山尾達がその昔夢中になって集めたミニカーや、お菓子のおまけのフィギュアが所々に顔を覗かせる独特の雰囲気の店内に興味を惹かれたらしい。
此処に来るまでも言葉少なだったので、無言で席に座られたらどうしようと思ったが杞憂だった。
これは連れ出して正解だったと思っていいだろう。
一通り店の中を見て回った恵が、コーヒーの準備をしているマスターに恐る恐る呼びかける。
「あのう・・・・・・お店の中って、ちょっとだけ写真撮らせて貰ってもいいでしょうか?」
「ええ勿論。ただ、SNSへのアップはご遠慮いただいてるんですが」
ここには、ガンと華南の娘である
自分たちが子供の頃には考えられなかったくらいネット社会が浸透しているご時世に、時々置いてけぼりを食らったような気持ちになる。
先日も芹南から、子供用のスマホを見せられてこんなものまであるのかと啞然としたくらいだ。
大人よりもよほど器用に動画検索をしたりアプリゲームを楽しむ子供たちに、もはやアラサーはついていけない。
マスターの言葉に恵が、慌てて首を横に振った。
「あ、いえ、そんなことはしませんので・・・・・・あの、すごく素敵な雰囲気のお店なので・・・参考に・・・」
どういうべきか迷う視線をこちらに向けられて、大丈夫だよと頷き返せば、恵が小さく、私、作家の端くれでして、と言い難そうに伝えた。
晴ブレンドが入ったコーヒーカップをお盆に乗せたマスターがカウンターから出て来る。
「へえ!それはすごい!そういうことなら沢山写真撮ってくださいね」
朗らかなその声にほっとしたように微笑んだ恵が、ちらりと山尾を振り返ってからスマホを翳して写真を撮り始めた。
リナリアに来た事で、眠っていた彼女の執筆意欲が刺激されたのなら何よりだ。
”めぐが腐ってスライムみたいになってるからどうにかして”
玲子から送られてきたメッセージにそれは不味いなと思って、予定より早めの帰宅を決めたのだけれど、タイミング的にはぴったりだったようだ。
ちょうどリナリアは常連客が帰ったところで貸し切り状態。
恵は心置きなく店内を歩き回ることが出来る。
「見た事無いお嬢さんだから、山尾くんの高校のお友達?」
「高校の後輩。卒業してからも家が近所だから仲良くしてるんだ」
「卒業してからってずいぶんになるじゃない。なんで一度も連れて来てくれなかったの?」
水臭いなぁと意味深な目線を向けられて、肩をすくめる。
山尾が医大生で一番忙しくしていた頃は、恵もデビュー作の準備に慌ただしくしていたし、研修医になってからは本当にこっちに戻ってくる時間が無かった。
恵は大学卒業してからますます引きこもりに拍車がかかってコミュ障になって行ったので、一人でリナリアに行かせるのは気が引けたし、まあそのうちどこかのタイミングで、と思っていたら、結局この年になっていたのだ。
「そういうきっかけが無くて」
「それだけ?なにか山尾くんに心境の変化があったんじゃないの?」
苦い別れから数年が経って、ようやく医者以外の自分にも目が向けられるようになった。
まだまだ研鑽は必要だし、この先も伸びしろはあると信じているが、自分の足で立てている実感を持てるようになったことで、少しだけ視野が広がった。
広げた視界で、真っ先に目に飛び込んで来たのが恵だった。
まだこの気持ちがどこに繋がるのかは分からないけれど。
ひとまず、よりよい未来に向かう事だけを願いつつ、静かに頷く。
「・・・・・・・・・・・・まあ、それなりに・・・・・・あ、恵、そこ段差あるよ、気を付けて」
目線の先では、板張りの床に軽く躓いた恵が苦笑いをしながらこちらを振り返るところだった。
「うわ・・・っ、はい・・・・・・気を付けます・・・・・・」
照れたように頬を染めた彼女が、またすぐに手元のスマホへと視線を戻していく。
マスターがそんな山尾と恵を交互に眺めて、ごゆっくりと言って離れて行った。
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