第6話 moon phase 2

駅徒歩数分の場所にある、内科や眼科が入ったクリニックビルで歯科医院を経営していた父親が、実家の建て替えに合わせて自宅の1階で歯科医院を開業する事に決めたのは恵が中3の春だった。


姉の玲子は早くから歯科医を目指すことを決めており、それに向けて着々と準備を進めていたので、まあ家のことも親の事もしっかり者の姉がどうにかするだろうと思っていた。


出来すぎる長女がすくすく成長したことへの反動か、両親は妹の恵には一切期待を押し付けて来なかった。


恵が望めば歯科医や歯科衛生士や歯科技工士になる夢を後押ししてくれたかもしれないが、残念ながらどれも恵にはピンとこず、必死に頑張ってどうにか姉の足元に及ぶ成績を目の当たりにしてからは、無理なく好きなことを探しなさいと放逐を宣言した。


ありがとう放逐!と心から思った。


これは嘘ではない。


だってずっと頑張って背伸びし続けるのは無理だし辛い。


それなら、好きなことを探しなさいと言われた方がずっと生きやすい。


そのおかげで、趣味だった少女小説を仕事に出来ればと思うようになれた。


というか、それ以外に好きなことが見つからなかったのだ。


高校生初めての夏休みは、引っ越し準備と引っ越しと後片付けに追われた。


父親の実家は、祖父母が亡くなってから空き家になっており、母屋を潰して更地になったとこを見に行って、初めてこんな大きな敷地だったのかと驚いた。


以前住んでいた便利な駅近からはずっと南に下った私鉄沿線沿いの片田舎は、当然ビルもマンションもなくて、夜は街灯だけがぽつぽつ灯っている。


古びた市場は昔の活気をどこかに置き忘れてしまっていて、いつ行っても閑古鳥が鳴いているし、なにより開いているお店が圧倒的に少ない。


これまでのように、ちょっとおやつを買いに、と出かけてコンビニを数件梯子して帰るようなことはできない。


地元唯一のコンビニは駅前の真新しい1軒のみ。


正直言って面白み皆無の地味な土地だが、文句なんて言える立場ではないし、父親は念願かなって地元で開業出来たことを心から嬉しく思っていたし、姉も数年後に自分が働くことになる職場に大変満足していた。


だから、たった1軒のコンビニまで、徒歩10分近くかかっても、ただ黙って歩くのみである。


夏休みの宿題は綺麗に片付いていて、体育祭、文化祭とイベント続きの二学期に向けて早めに始動した生徒会の仕事をこなしつつ、空いている時間のほとんどは現在構想中の青春恋愛小説のプロット作成につぎ込んでいた。


人生で初めて自分でも小説を書いてみようと思わせてくれた、素晴らしいクラスメイト二人と、山尾に心から感謝である。


まさか、構想段階のマル秘プロット帳を姉の玲子に盗み見されるなんて思わなかったけれど、あれ以来、ノートは毎回通学カバンに入れて持ち歩くようにして居るので、現在書き溜めしている胸キュンネタや、校内で偶然遭遇した青春エピソードの数々は見られていない。


これを上手く文章に出来るのかは全く謎だけれど、気になるシーンや使えそうなネタを書き留めるたび、ふわふわと浮かんでくる三人のむずきゅんな恋模様にニヤニヤする時間は最高の至福である。


からかいこそすれ、玲子は妹のマル秘プロット帳を見ても馬鹿にすることは決してなかった。


むしろ初めて知った妹の意外な才能を手放しに褒め称えた。


自分にはない才能を妬むどころか賞賛できる懐の大きさが、いかにも彼女らしい。


”小説になる、ならない、じゃなくて、書きたいって思ったんならやれるとこまでやってみなよ。あんたがあんな熱心になるのって初めてでしょ?寝食忘れて打ち込めるものがあるって凄い事よ!”


はじめて姉から向けられる尊敬の眼差しはむず痒くて、嬉しかった。


頭の中で勝手に会話を続けている彼らに、ちゃんと居場所を与えてあげようという気持ちが日増しに大きくなっていって、それはやる気に繋がっていく。


夏休みも残り数日だし、ちょっとさわりだけでも書いてみようかな、なんて思いながら、興奮冷めやらぬ状態でアイスを買いにコンビニに向かっている途中で、聞き慣れた声で呼ばれた。


「え、恵?」


見ると、駅の改札を抜けて来た山尾が目を丸くしてこちらを見ている。


いつも生徒会室でしか顔を合わせない彼の私服姿を見るのは初めての事だった。


いま電車を降りて来たということはここが彼の最寄り駅ということで、と答えを探そうとした矢先、数日前に見た古びた内科の看板を思い出す。


「あれ?山尾先輩・・・・・・・・・あ、山尾医院!」


「ああ、じゃあ、涼川歯科って玲子先輩の・・・」


「そ、そうです!先週のアタマに引っ越してきて・・・・・・そっか、先輩の地元ここだったんですね・・・凄い偶然」


これはもう小説の神様が、一刻も早く冒頭の一文を書いてみろと背中を押しているとしか思えない。


山尾が医大希望ということは、姉の玲子を通じて聞いていたけれど、生徒会室での彼は決して言葉数が多い方ではなかったので、プライベートな話題はほとんど聞いた事がなかった。


「俺も、涼川歯科医院の看板見た時に、もしかして、とは思ってたんだけど・・・引っ越すって言ってたもんな・・・で、こんな遅くに何処いくの?」


腕時計を確かめた山尾が一人で危ないよと顔を顰める。


22時を回った駅前で立ち止まっているのは二人だけ。


改札を抜けた人たちは足早に自宅へと帰って行く。


「ちょっとコンビニにアイスを買いに。先輩は予備校帰りですか?」


「うんそう。ここから本格的に受験一色だから。ちょっと薄着じゃない?」


「これでも一枚羽織って出て来たんですよ」


姉と共用で使っている7分袖のカーディガンの下はカップ付きのタンクトップ一枚だ


ポケットに手を突っ込んで裾をひらひらさせたら、山尾が珍しく顔を顰めた。


「前の家みたいにコンビニ近くないんだから、用心しなよ。せめてボタン止めなさい」


「痴漢どころか誰にも会いませんよ」


「そういうことじゃないよ。コンビニ俺も一緒に行っていい?」


「勿論です。え、でも、ほんとに買うものあります?」


生徒会仕事で帰りが遅くなると電車組を決まって最寄り駅まで送るのは山尾だった。


この距離なのにその感覚でお節介を焼かれると申し訳ない。


「ー・・・あるよ」


「ないですよね?」


「俺もアイス食べたくなったから、ほら行こ、恵」


先に歩き出した山尾が軽く手招きしてくる。


入学してからしばらくは涼川と呼ばれていたのだが、姉の玲子がちょくちょく生徒会室を覗きに来るようになってから、紛らわしいので、名前で呼ばれることが浸透した。


自分が小説のモデルにしている男の子に名前を呼ばれるなんて何だか照れ臭い。


あ、こういう気持ちはヒロインに反映させよう。


さっそく頂いたネタにほくそ笑んでいると、山尾が怪訝な顔でこちらを見てきた。


「なにニヤニヤしてるの?」


「なんでもないですっ!」


当て馬ヒーローは他人のちょっとした表情の変化を見落とさないものらしい。

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