第36話 New Moon-1

一番優しくて安心出来ると思っていた人が、一番油断ならない相手だと分かってから数か月。


温厚で思慮深い山尾の搦め手は止まらない。


こういう彼の一面を知っていたら、あの時書いた青春恋愛小説のカップリングは変わっていたかもしれない。


いや、だとしたらそれこそ、山尾と愛果の大団円だ。


同級生の爽やかスポーツマンの朝長は恋に破れて去って行き、年上の魅力に落とされた愛果は、山尾と結ばれて彼を追いかけて同じ大学へ進学する。


その後、山尾は今のような開業医になり、愛果は医療事務の資格を取って彼を陰日向にサポートして、二人で山尾医院を盛り立てて行く。


どうしよう、そうなると今度こそ本当に名無しモブの入る隙間は無くなってしまう。


いや、違うから、最初から隙間なんて無かった、無かったのだ。


まだあの人の手を取ってはいない、だから、彼は自分のものじゃない。


”手放す”なんてとんでもない、手を伸ばしてすらいないのだから。


それなのに、唇を辿れば容易にキスの余韻が襲ってきて、呼吸を乱してくるからいけない。


恋でもしてみたら小説のネタになるんじゃないか、なんていつかの自分は気楽に考えていたけれど、とんでもない。


恋を自覚したら、自分のことでいっぱいいっぱいになって小説どころではなくなってしまう。


相手のことで頭の中が埋め尽くされて完全に山尾の一人劇場だ。


頭の中でさえ同じ舞台に上がれない自分の負け犬根性にもはや渇いた笑みしか浮かばない。


”穏やか温厚医師だけだとちょっとパンチが足りませんねー!追加設定なんかありませんかね?”


”策士とかどうでしょう?”


”いいですね!それ最高です!”


脳内で勝手に担当と自分の会話をシミュレーションしてしまう。


穏やかな見た目とは裏腹に、逃げる舌先を絡め取る山尾の仕草は執拗だった。


恵が落ち着くまで待って、宥めて、けれど込み上げてくる熱を冷まさないキスのしかたを彼は知っていた。


どうすれば気持ち良くなれるのかも。


ストイックなイメージを勝手に押し付けていた自分を反省して、もう二度とあんなことはと慎重に距離を測っていたのに、油断した隙にあっさりと手の中に落とされてしまった。


二度目のキスは唇が触れ合うまでに十分な間があった。


顔を背ける事だって、本当は出来たのだ。


この年になれば、心より先に身体が反応してしまうことだってある。


疼いた腰が淫らな熱を欲しがって、じわじわと心を浸食し始めるのを感じて、慌てて目を閉じた。


身体を押し開かれたことは無くても、その行為については知っている。


人並みの知識だってある。


だから、彼の熱を知らなくても、その行為が恵をどんな風に変えてしまうのかは想像することが出来た。


一線超えてしまったら、完全に先輩後輩ではなくなる。


世の中には、セフレとかワンナイトなんていうその場限りの愛情のない行為を楽しむ人たちもいるようだけれど、恵にとってそれは未来につながる行為だ。


だから、行きずりとか、適当、という言葉が付けられるような相手とは寝たくない。


古かろうが重たかろうが、そう思える相手が出来なかったら一生この貞操を守ってやろうと思っていた。


でも、あの一瞬、ほんの少しだけ揺れてしまった。


呑まれてはいけないと思った時点で、もう呑まれているのに。


油断しないと身構えれば身構えるほど、上手く彼は隙を突いて来る。


こんなに無防備だっただろうかと唖然とした瞬間に、気持ちのいいキスで何も考えられなくなる。


多分、それを彼は狙っているのだ。


いつまでも頑なな臆病者の恵を引っ張り込むには、それ以外の方法が見つからないから。





「ボーっとしてるけど、疲れた?」


真横から聞こえて来た声に、一気に現実に引き戻される。


瞬きをして声の主を見上げれば、まるで診察室で向かい合う時のような視線を向けられた。


「っへ!?あ、いえ・・・・・・すっごいいっぱりあり過ぎてちょっと圧倒されてました」


広々としたフロアに並べられた大小さまざまなソファーを一望しながらほうっと息を吐く。


午前診療を終えた土曜の午後、買い物に行きたいという山尾に連れだされてやって来たのはと都心の埋め立て地にある大きなインテリアショップだった。


生まれてこのかた独り暮らしをしたことの無い恵には縁のない真新しい家具が所狭しと並んでいる。


カーテンすら玲子が嫁ぐ前に置いて行ったものをそのまま使っている恵なので、当然インテリアにはこだわりなんてない。


実家のダイニングテーブルも恵が子供の頃からずっと変わらないし、恵の部屋のデスクとベッドは、こちらもやはり玲子のおさがりだった。


「家具屋さんなんて、あんまり来ないもんな。恵も実家暮らしだし」


「たぶん、誘われないと一生縁がなかったと思います」


仕事で使うデスクはパソコンさえ置ければなんだっていいし、ベッドの上で作業する事だってある。


言われてみれば、学生時代からあまり物欲が無かった。


欠かさず買っていたのは揃えていたマンガと少女小説の新刊くらいで、流行りのものは欲しがる前に玲子が手に入れていて、飽きてこちらに回って来ることも多かったのだ。


自主性とは無縁の子供時代を思い出して苦笑いが零れた。


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