第3話 Worm Moon
「お、いらっしゃい。めぐちゃん、待ち人来たよ」
古びた引き戸を開けて日に焼けた暖簾をくぐって顔を見せた山尾に、
「お疲れ様です。別に待ってませんよ。今日も残業でしたね」
お先に頂いてますと半分ほど残ったハイボールを掲げて見せれば、山尾が時計を見て早くない?と零した。
定位置であるカウンター席の隣にあるストッカーからおしぼりを取り出して手渡してやる。
「一人でぱっと飲んでぱっと帰るつもりだったんです」
「ありがとう。長谷さんに言って、中で待ってればよかったのに」
渡された中ジョッキを受け取って、山尾がそれを持ち上げる。
無言のままハイボールのグラスを掲げて軽く合わせた。
この店の常連客は、大抵海沿いに住む漁師か、漁業組合の人間だ。
漁師は朝が早いので20時前にはみんな引き上げてしまうので、そうなると一気に店は静かになる。
「え、気を遣うから」
「恵、長谷さんと仲悪かったの?」
「良くも悪くもないですよ。見ればわかるでしょ?タイプが違うんですよ。長谷さんって、学生時代はうちのお姉ちゃんみたいに目立ってたから。教室の端っこで本読んでるタイプの私とは接点なんてほとんどないです」
彼女の周りには、いつだってヒエラルキー上位の華やかな女子高生たちが集っていた。
ティーン向けのファッション雑誌片手に昼休みはメイク直しに当てるような子がほとんどだった。
かたや恵は、生徒会の資料作成をしているか、同じ趣味の友達と少女漫画や少女小説を回し読みしているタイプだったので、会話をしてもまともに噛み合わない事の方が多かったはずだ。
その極端と極端の真ん中をすいすい泳いで、両方の懸け橋になっていたのが愛果だった。
少女漫画を呼んでいる恵たちに声を掛けては、それ面白そうだねと話題を振って、メイクグッズを机に並べる派手なグループに混ざってはマニキュアで遊んで、クラスの雰囲気が上手く調和するようにいつも気を配っていた。
そして、その傍らにはたいてい朝長たちが居た。
時には一緒に食堂にお昼ご飯を食べに行ったり、体育館で遊んだりと、恵の創作意欲を掻き立てるいくつもの行動をとってくれた。
そして、生徒会の定例会に行けば、クラス委員の二人と、生徒会役員の山尾が一度に見られる。
愛果と朝長は、卒業するまで常にクラス委員を任され続けていたので、定例会は恵にとってまさに至福の時だったのだ。
当時の明るくて元気な愛果は、あまりにも生きる世界が違い過ぎて自分から話しかける勇気は出せなかったけれど、今の色っぽい愛果もやっぱり恵にとっては特別すぎて、気易くなんて出来ない。
高校三年間、ひたすらヒロインたちに熱視線を送り続けていた書き手としては、いまだに彼女は鑑賞物扱いなのだ。
「長谷さん、涼川先輩みたいだったの?・・・ちょっと意外だなぁ。昔から大人しいタイプなのかと思ってたよ」
山尾が知る長谷愛果は、山尾医院の受付助手を務める控えめ色っぽ美人の彼女のみなんだろう。
過去の彼女を知っていれば、一度で二度美味しい気持ちを味わえるのに、残念なことである。
「いつもクラスの真ん中にいるような女の子でしたよ」
「へえ・・・・・・」
「っていうか、先輩あの頃から生徒会役員の綺麗処にさえ見向きもしなかったですもんね。お姉ちゃんが言ってましたよ、ほんとにあんなに靡かない男は知らんって」
「え。そうなの?」
綺麗に手入れされた丸い爪が、ピスタチオの殻を剥いでいく。
隣の小皿に入れた実をさり気なく恵のほうへ差し出しながら、彼が苦笑いを零した。
「お姉ちゃん、最後の一年は死ぬほどアプローチしたって言ってましたけど」
これでも美人生徒会長として知られていた姉である。
中学時代からモテて来た自負のあった玲子は、初めて袖にした男にその後の自分の幸せぷりを見せつけるためだけにしつこく後輩達を誘って飲みに繰り出していたのだが、それは妹の恵のみが知ることだ。
「いやー・・・・・・ちょっとその頃あんま余裕なくて、恋愛どころじゃなかったなぁ」
「勉強も大変でしたしね」
玲子同様、医者になるレールを真っすぐ突き進んでいた彼は、予備校通いを続けながらぎりぎりまで生徒会の仕事もこなしていた。
イベント準備のために早起きして、早朝の生徒会役員室を覗くと大抵山尾が先に準備を始めていて、この人いつ眠っているんだろうと本気で心配した記憶が蘇る。
「・・・・・・そうだね」
目を伏せて笑った山尾が、揚げ出し豆腐を受け取って綺麗にそれを切り分けた。
昔からシャーペンの持ち方も、お箸の持ち方も、書く文字も、食べ方も全部が綺麗な人だった。
粗野な所が少しもないところも含めて、恵の理想とするヒーローだったのだ。
朝長は、山尾よりもずっと等身大の元気な男の子で、クラス行事になると一番目立つようなタイプだった。
「今日はどこのお子さんが急患ですか?」
「岩谷酒店」
「また!?あそこの子しょっちゅう怪我してません!?」
「上級生に混ざって野球の練習してるから、無茶するみたい」
「はー・・・上昇志向の塊ですね」
「負けず嫌いなんだよ。父親に似て。意地っ張りなところは母親似だし・・・この間まで幼稚園バック振り回してたのになぁ」
しみじみと噛み締めるように言って、山尾が中ジョッキを傾けた。
見た目に反してかなり酒に強いこの男が酔っているところを恵は見たことが無い。
家族で一番酒に強い玲子を背負って自宅まで送り届けてくれた時には、家族全員が信じられないという顔になった。
そして、酔っていても顔に出ないのが彼だった。
「子供ってすぐおっきくなりますよねぇ」
「大晴くんって4つだっけ?」
「そうです。えっと、先輩の幼馴染の、あのリナリアの店員さんの」
海沿いのログハウスを改造した唯一の喫茶店、リナリアのパート店員はいつも朗らかな笑顔で迎えてくれる。
「ああ、早苗のとこの
「あ、そう!そうです。那千くんと同じクラス」
二児の母親である早苗は、恵が店に行くたび大晴くんのお姉さん、と言ってサービスしてくれるのだ。
時が流れるのは早いよと目を伏せる山尾の横髪を眺めながら、ふと姉から聞いたことを思い出した。
「そういえば、この間お姉ちゃんがかかりつけの婦人科で看護師の田中さんに会ったって言ってましたよ。お腹おっきかったらしくって、声掛けたら7か月ですって・・・・・・ちゃんと、幸せそうにしてたみたいですよ」
彼が研修医時代に、父親の元で働いていたバツイチ子持ちの看護師と付き合ってきたことは知っていた。
当時の年齢を考えても、再婚に踏み切りたかった彼女の気持ちも、最後まで踏ん切りがつかなかった彼の気持ちもどちらも分かる。
結局、山尾医院が若先生の代に移る時に、彼女は退職して子供を連れてこの町を出ており、その後どうしているのかは、わからなかったのだ。
当時を思い出しても山尾は一番忙しい時期で、医者としても大切な時期だった。
理解のある年上の女性に惹かれた山尾は、彼女の子供とも随分仲良くしていたし、何度も三人で出かけていた。
玲子と恵は、このまま数年後には家族になるのではないかと噂していたくらいだ。
けれど、それは叶わなかった。
親子が町を出た後、飲み行く機会が増えて罪悪感いっぱいの山尾を間近で見て来た恵である。
彼があの恋を長く引き摺っていたことも、恵は知っていた。
「・・・・・・ありがとう。もう気にしてないよ」
「そのうち、どこかで会う事もあるかもしれないなって思ったんで、念のため」
「平気だよ」
「・・・そう言うと思ったんで、こうしてお伝えしたんです。ちゃんと平気な顔できないと困るでしょ?」
恐らくいまの彼だったならば、迷わず彼女達親子を選んだだろう。
自分が掴めなかった未来を目の当たりにした山尾が、笑顔を作れなければ、それを見た彼女は少なからずショックを受ける、それはさせたくないだろう、と思った。
気遣いの塊のような彼が、少しでも心穏やかになれれば良いだろうと思った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日もやっぱり最後の一組になって、岡本に見送られて店を出る。
昼間も殆ど車が走らない私道に入ると、小さな波の音が聴こえて来た。
「先輩、うちすぐそこですし、ほんとに送らなくていいですよ」
山尾医院から涼川歯科医院までは、徒歩10分も掛からない。
街灯が少ない道ではあるものの、こんな片田舎で悪さをする人間は出てこない。
けれど、何度言っても山尾は恵の家の前を通る遠回りの道を選んで帰る。
「ついでだよ、ついで」
ハイボール二杯でほろ酔いの恵はそれ以上の問答を避けて、黙り込んだ。
頬を擽るちょっと肌寒い夜風が、火照った身体を冷やしていく。
「・・・・・・あのさ、恵」
「はーい」
「俺、結婚したいと思うんだけど」
いきなり飛び出した今日一番の特ダネに、思わず隣の彼を見上げる。
どうしてそれをお店じゃなくて今言うのか。
「もしかして、お相手は長谷さんですか!?」
迷うことなく彼女の名前が飛び出したのは、ちゃんとした理由があった。
彼女恵にとってのヒロインであること以外の。
看護師との恋を引き摺っていた彼が、雰囲気のある受付助手に心惹かれるのは道理だし、何とも絵になる二人だ。
高校卒業後もずるずると地元の飲み仲間として付き合っては来たものの、山尾は自分のことを進んで話すタイプでは無かったし、恵も他人のことに首を突っ込むタイプでは無かったので、それぞれの恋愛事情に深く踏み込んだことは無かった。
玲子や義兄が同席している時は、大抵玲子の話にみんなが聞き入ることになるので、二人になっても結局は、玲子や大晴の話題がほとんどだったのだ。
これはもしや本当に、カップリングを換えて大人の恋を描いてみろという神様のお達しだろうか。
食い入るように山尾に問い返せば、珍しく不服そうに彼が眉根を寄せた。
「なんでそこで長谷さんなの?」
「え、だって長谷さん、先輩のこと好きですよね!?」
酔いに任せて緩んだ口から、飛び出した言葉に、山尾が目を丸くした。
彼女と再会してからこちら、医院で顔を合わせるたびに愛果から向けられる視線と、彼女が山尾に向ける視線を見れば、簡単に気持ちは察することが出来る。
「・・・誤解でしょ、それ・・・適当なこと言わないの」
呆れた顔で言った彼が、そうじゃなくて、と仕切り直す。
そうじゃなくてと仕切り直したいのはこちらのほうだ。
が、勝手に人の恋心をばらしてしまった罪悪感で、咄嗟に言葉が遅れた。
その直後、彼からとんでもない爆弾が投下された。
「そうじゃなくてさ、結婚しない?俺と」
脇役ですらないクラスメイトのモブにプロポーズするヒーローがどこに居る。
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