第2話 Snow Moon
初対面の印象が10年以上経って変わらないのは、彼くらいのものだ。
山尾宗介という人間は、最初からよくできた男だった。
国立大学への進学率が市内でトップの高校の、理数科といういわゆる特進学科に籍を置く彼は、当然成績も優秀で教師たちからの覚えもめでたく、ゆくゆくは父親の跡を継いで医師になるという筋書きまで完璧な優等生。
二学年後輩にあたる
恵と入れ替わりで卒業した姉は、高校の歴代二人目の女生徒会長として名を馳せており、父親の歯科医院を継ぐべく山尾と同じように医師を目指しており、似たような境遇にあった彼らは在学中からかなり懇意にしていたらしい。
入学式直後のホームルームで、担任が名簿で恵の名前を見つけた途端、嬉しそうに涼川の妹かあ!と呼びかけて来て、気づいた時にはクラス委員に抜擢されていた時には姉を呪いたくなったが、これはもう小、中と辿って来たシナリオだったので、半ば諦めていた。
活発で元気があっていつもみんなを引っ張って行ってくれるリーダシップの塊みたいな玲子ちゃん。
勉強も運動も出来て、将来を期待される姉の次に生まれた妹は、まさにみそっかす同然。
勉強も運動も得意ではなく、人前に出ることも好きではないし、リーダシップとは真逆の性格の恵は、玲子二世を期待した人たちをことごとく裏切って来た。
クラスメイト同士のコミュニケーションが取れていない一学期だけ決まったように押し付けられるクラス委員の役割さえどうにか全うすれば、二学期以降は陽の目を見ることなく教室の端で静かに過ごすことが出来る。
それだけを望んでいた恵が、あろうことか高校在学中の三年間生徒会に在籍し続けたのは、胸をときめかせる人がそこに居たからだ。
中学時代読み始めた少女小説をきっかけに、誰にも言わずに小説家になる夢を抱き続けていた恵にとって、山尾との出会いはまさに運命のように思えた。
彼は、自分が書きたいと思う青春恋愛小説のヒーローを具現化したような存在だったのだ。
生徒会の中でも目立つ方ではなく、会計としてほかの役員たちを支える彼の誠実で温厚な雰囲気は、親しみやすさと温かみに溢れていて、後輩達からも随分慕われていた。
青春恋愛小説といえば三角関係が定番で、山尾をモデルにした先輩とヒロインを取り合うもう一人のヒーローは、恵と同じクラスの男子生徒。
入学式直後からクラスの女の子たちがこぞって話しかけていた、恵と同じくクラス委員に抜擢された(こちらはクラスの女子からの推薦で)
そして、極めつけのヒロインは、一年前のデビューからオリコンチャートを賑わせているアイドルグループの一人によく似た面差しの華奢で明るいクラスメイト、
朝長と愛果は、席が近かった事もありすぐに仲良くなっていて、傍から見ている女子生徒たちの間では付き合っているのか以内のかの論争が頻繫に勃発していた。
カッコイイ男子高校生と、可愛い女子高生、ちょっと控えめな年上の先輩が揃えばあっという間に脳内青春恋愛ストーリーは開幕する。
書きたいと思える素材が見つかると一気に妄想は膨らむものだ。
勢いそのままに高1の冬から書き始めたそれを、高3の夏休みに出版社のコンテストに応募して、奇跡的に準佳作にありついて、改稿作品をデビュー作として出版業界の片隅に小指の爪の先程度の居場所を作ってから10年以上。
一作目も目に見えてヒットはせず、おまけで出して貰えた二作目は全く売れず、就活に失敗した恵は、それ以降時折Web雑誌にエッセイや短編小説を寄稿しながら、結婚した姉が夫と共に跡を継いだ涼川歯科医院の受付助手をしつつ、甥っ子の子守りをしながら細々と暮らしている。
高校の生徒会の繋がりが卒業後もずるずると続いたのは、姉の玲子がしょっちゅう役員たちを飲みに誘ってきたせいだ。
姉が行くのだから当然妹も来るべきだというジャイアニズムを発揮した姉に引っ張られて飲み会に顔を出しているうちに、独立して地元を出るメンバーが抜けて行き、結果徒歩圏内に住んでいる山尾と玲子と恵だけが残った。
歯科医と母親業を掛け持ちし始めてからは、さすがの玲子も飲みに行こうと声を掛けて来ることが減って、そのうち各々が好きなタイミングで、玲子の同級生が二代目店主を務める地元唯一の居酒屋”
歯科医院の二階に、引退した父親と母親と一緒に暮らしている恵は、気詰まりになると一人でふらりと飲みに行く事が多い。
そして、気まぐれに山尾医院を覗いて診療時間が終わって居れば彼に声を掛ける。
山尾医院は、彼の父親の代の時に敷地を広げて、歩道沿いに医院を、裏手に二階建ての自宅を建てており、現在山尾は一人でその家に住んでいた。
玲子は、夫婦でバリバリ稼いで、ゆくゆくは山尾医院と同じように、裏手に二世帯住宅を建てる計画を立てているらしい。
その頃の自分のことは、あまり考えたくない。
甥っ子の
子供はあっという間に大きくなっていくのだから。
最後の患者を見送ってレジを閉めて二階に上がると、ダイニングテーブルに置手紙を見つけた。
”お父さんとお寿司食べてきます”
がらんとしたキッチンには当然何も残ってはいない。
仕事一辺倒で引退まで駆け抜けた父親は、入り婿でやって来た奇特な義理の息子を大層気に入っており、経営については長女夫婦に一任して、第一線を完全に退いていた。
最近は待ってましたとばかりに、あちこちに夫婦で出かけたり、旅行に行ったりと第二の人生を全力で謳歌している。
このあたりは、山尾の両親とよく似ていた。
神経質な父親は、ストレス過多だった医師時代に出来なかったことを一通り楽しむのだと、65を過ぎてから新しい趣味まで探し始めている。
専業主婦の母親の城であったキッチンには近づかない少女時代を過ごしたせいか、いい大人になった今も、涼川姉妹は料理が苦手である。
こういう時のために、冷凍食品は完備されているのだが、それすらも億劫でスマホと財布だけ掴んで家を出る事にした。
先に大晴と共に帰宅している玲子に、デレデレの顔で帰るよコールを架けている義兄に手を振って敷地を出ると、たまには誰かと飲みたいなと思い始めた。
お互い医療従事者なので、レセプト期間はお店には顔を出さない。
月半ばのこの時期ならば山尾の身体も空いているかと思って山尾医院の方へ足を向けると、生憎医院の明かりはまだ灯ったままだった。
高校入学時にこの町にやって来た恵たちとは違って、生まれた時からここで暮らす山尾は、恵の数倍知り合いが多い。
その大半が既婚者で子供を育てており、近くに小児科のないこの町のかかりつけ医状態の彼の元には、診療時間を過ぎても駆け込み患者がしょっちゅう訪れるのだ。
今日もそのパターンなのだろうと踏んで、一人で軽く飲むことにしようと決めた矢先、医院の入り口の自動ドアが開いて、受付助手の愛果が出て来た。
高校時代、ヒロインとしてずっと目で追い続けていた彼女は、あの頃のような今にも折れそうな華奢さは無くなったが、肉付きがよくなったぶん柔らかくて、どこか色っぽい雰囲気を醸し出している。
恵が彼らをモデルにした小説で作家デビューしたことは誰も知らないので、慌てる必要は無いのだが、あの華やかな青春時代から10年以上経ってから、三角関係の末、結ばれなかったヒーローと同じ職場になったヒロインに再会した時の恵の心臓は有り得ないくらい早鐘を打ったし、大興奮した。
興奮しすぎて、大人になった彼らの物語を書きたいと思ってプロットまで作った始末だ。
すでに、朝長をモデルにした同級生のヒーローと結ばれて完結したヒロインの物語をねじ曲げるのはいかがなものかと思い改めて、お蔵入りを決めたけれど。
クラスメイトだった頃の愛果は、当時人気だったアイドルグループのようによく笑っている女の子だった。
〇〇ちゃんに似てるね、と言われるたび照れたように笑っていたことを思い出す。
食べても食べても太らないのと嫌味のない笑顔で言って、部活に行く前に食堂で買って来た焼きそばパンを美味しそうに齧っている姿をよく見た。
自分から話しかけるタイプでは無かった大人しい恵にも気さくに話しかけてくれて、いつだって朝長同様にクラスを引っ張って行く存在だった。
ちなみに当然のように二学期以降のクラス委員は、朝長と愛果に決定して、それは恵の思惑通りでもあったのでかなり嬉しいことだった。
卒業するまで二人が付き合っているという話はついぞ聞くことは無かったけれど、偶然か必然か同じ大学に進学したらしいので、もしかすると、キャンパスライフで素敵な時間を過ごしたのかもしれない。
が、そんな事をあれこれ聞けるほど、当時の愛果と恵は仲は良くなかったし、クラスが離れた後は接点すらなかった。
勝手に恵の中でヒロインとして生き続けているだけの存在だったのだ。
最初に恵に気づいたのは彼女の方だった。
あの頃と変わらない地味な印象そのままで苗字もそのままの恵が差し出した診察券と甥っ子の大晴を交互に見て、あ、という顔になった彼女の当時よりいくらか丸みを帯びた綺麗な顔を見た瞬間に、こちらもあ、となったのだ。
確かめるようにナース服の名札を見れば、長谷、と書かれていて、あああああ!と甥っ子をほったらかして床にのたうち回りそうになった。
当然しなかったけれど。
愛果は、あの頃より随分控え目な大人の女性になっていて、恵とも必要以上の会話をしようとはしなかった。
10年以上も経っているのだから、当然といえば当然である。
あの再会以降、時折顔を合わせればぎこちない挨拶だけを繰り返している。
半径2キロ圏内の狭い世界でのみ生きて来たコミュ障気味の性格が憎い。
本当は、あなたはいまも私のヒロインよ!と言いたいが、当然言える訳もないのだ。
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