隣で好きから始めます ~脇役未満女子と主役先輩医師のやんごとなき婚活事情~  

宇月朋花

第1話 Wolf Moon

「若先生ありがとうございましたー!ほら、たくもお礼言いな!」


懐かしいセーラー服に身を包んで、母親によく似た大きな両目でじろりと椅子に座っている弟を見下ろして、ぽんと芹南せなが背中を叩く。


「ありがとうございましたぁ」


さっきまで泣きべそをかいていた弟の拓は、父親譲りの丸顔をぐしゃぐしゃにしながらお礼を口にした。


本当に遺伝ってあるんだなと同級生夫婦を思い浮かべながら、拓の頭を優しく撫でる。


「はいはい。傷が浅くて良かったよ。当分野球は見学ね、芹南、お風呂の時も気を付けてあげて」


「俺一人で入れるよ!」


「ああ、そっか。ごめんごめん」


ついこの間まで、華南の背中に背負われていたイメージが強い下の子はとくに、三歳児のイメージがどこまでも抜けてくれない。


「お母さんに、大丈夫でしたって連絡入れておこうか?」


山尾の問いかけに、芹南が首を横に振った。


「お夕飯の支度で忙しいだろうからいい。お母さんも、多分大丈夫だろうって言ってたし」


この間まで真っ赤なランドセルを背負ってはしゃいでいた岩谷家の長女が、すまし顔でスカートの裾を指で払う。


本日の診療時間が終了して、引き上げようかとし始めた矢先、スマホが鳴った時にはドキリとしたが、着信画面に表示された名前を見て、ああまたかと覚悟を決めた。


ガン2号と幼馴染たちの間では呼ばれている拓は、とにかくやんちゃでしょっちゅう怪我をしてはこうして山尾医院に飛び込んで来る。


拓が幼稚園のうちは、母親か父親が連れて来る事が多かったが、芹南が中学生になってからは、家業の酒屋を開けている時間帯は、部活から帰って弟の面倒を見るのは姉の芹南の仕事になっていた。


「そっか。二人で帰れる?」


いくら近所とはいえもう19時を過ぎている。


何年経っても変わらないのどかな海沿いの町は、平和そのものだがやはり子供だけで帰すには少し不安があった。


白衣を腕から抜きながら尋ねた山尾に、芹南が眉を吊り上げた。


華南が起こった時とそっくりだ。


「若先生!あたしもう中2なんだけど!?」


どうやらまたやってしまったようだ。


多感な思春期を迎えている女子中学生は子ども扱いされるのを殊更嫌う。


まあ徒歩5分程度の距離だしなと、ごめんごめんと眉を下げて頷いた。


「そうだね。余計なこと言った。気を付けて帰ってね、二人とも」


お世話様でしたと頭を下げて弟の手を引いて診察室を出て行く子供たちを見送ってから、スマホを取り出して、メッセージアプリを起動させる。


”いま帰った。今日は縫ってないよ。入浴の時濡らさないように気を付けて。明日の夕方もう一度診せに来て”


送信ボタンと同時にすぐにアプリが着信を告げた。


「もしもし?」


『山尾っちほんっとごっめん!毎回!今日も助かった!』


「いいよいいよ。大怪我じゃなくて良かったよ。送ろうかって言ったら芹南に𠮟られた」


『あーごめん、難しい時期でさぁ。あとで叱っとく』


「叱らなくていいよ別に。大きくなったなあって思ってさ」


スピーカーに切り替えているようで、華南の声の側から鍋が煮える音と、包丁で何かを刻む音が聴こえて来る。


料理なんて全くやったことが無い状態で岩谷家に嫁いで早14年。


すっかり酒屋の奥さんが板についた華南は、今は早苗と同じく二児の母である。


『歳感じるからやめてよねー。あ、おばあちゃん、子供たち帰って来るってー』


「忙しいとこごめん。とりあえず報告だけと思って。拓も痛いの我慢して消毒してたから褒めてやって」


『ほんとありがとね。今度おかず差し入れするから』


「俺の分もだと作るの大変でしょ」


『一人分増えたって大したことないわよ。だってどうせ早苗のとこにも持って行くし』


「それ、早苗も言ってたな」


『でしょー・・・あ、帰って来たわ。ほんとありがとね!』


玄関の引き戸を開ける音がして、子供たちの元気な声が聴こえて来る。


任務完了だなと、お決まりのお大事にを告げてスマホを机に戻すと、父親の代から勤めてくれているベテラン看護師の森井が、器具を片付けながら賑やかですねぇと笑った。


「地元で医院継ぐと大体同窓会になりますよね」


同級生のほとんどは地元に残って家庭を築いており、それぞれ子供も生まれている。


この辺りの医院は相変わらず山尾医院だけなので、大人も子供もみんなが病気やけがをすればここにやって来るのだ。


「若先生もほら、自分のことそろそろ考えないと」


昔から医者も65歳定年だと豪語していた父親は、宣言通り一人息子である宗介に病院を譲った後、母親と共に小豆島へ移住してしまった。


勤めていた病院を退職して本格的に地元に腰を据えて開業医として地域医療に従事するようになってから二年。


幼馴染のなかで、最後の一人だった友世も、社内の年下営業マンと無事に結婚して、昨年一人娘が生まれた。


見送るべき人間は、すべて見送って、ホッとしたというのが正直なところだった。


「家付き開業医で、面倒な嫁姑問題もなし、遺産相続で揉める兄妹もなし、こんな優良物件ほかにないのに!先生がもうちょっと待ってくれるって言うなら、うちの子が大学卒業した後任せたいくらいだわ」


「・・・・・・いや、おむつ換えた子をお嫁さんにするのはちょっと」


そろそろ35が見えて来て、地元の母親代わりを自負している森井があれこれ気にかけてくれているのは有難いが、自分の娘を宛がうのはいかがなものか。


地元に残っている華南と早苗は、子供を医院に連れて来るたび、リナリアで顔を合わせるたび、どちらかの家で夕飯を食べるたび、そろそろ結婚しないのかとせっついて来る。


山尾がその昔、友世にほのかな思いを抱いていたと信じている二人は、友世が社内の年下の営業マンと交際を始めた直後もヤキモキしていたし、山尾が研修医時代に、山尾医院で森井の後輩として働いていたバツイチ子持ちの看護師と付き合っていた頃もヤキモキしていた。


想い人がいようがいまいが、交際相手がいようがいまいが、終始態度の変わらない山尾が気になって仕方ないらしい。


医師という職業に就いてからさらに慎重に慎重を重ねるようになった。


だから、華南と早苗には色んな事に気づくのが遅いのだと詰られるが、本当のところは違う。


決断するのが、いつも遅いのだ。


最善策を考えている間に事態はどんどん変わって行って、結果目の前の事態に対処しているうちに時間が過ぎている事の方が多い。


自分以外の誰かの命を預かる職業なのだから、自己は二の次になるのは当然だ。


そして、二の次の自分でも気負わず接することのできる人間は居てくれるので、さして不便も感じてはいなかった。


「あの・・・・・・先生」


長谷愛果はせあいかが、申し訳なさそうに受付から診察室を覗き込んできた。


「あ。申し訳ない、長谷さん。上がってって言うの忘れてた」


身内同然の子供たちが飛び込んできた時には、看護師のみ残って貰い、受付は締めて先に帰って貰うようにしているのだが、今日は大泣きをした拓が芹南に背負われて駆け込んできたのですっかり声掛けを忘れていた。


「いえ、レジのお金金庫に移して、入り口戸締りしてますんで、よろしくお願いします」


「はいはい。了解しました。遅くまで申し訳ない」


森井と同じく徒歩圏内に住む愛果は、二年半ほど前から勤めてくれている控え目で真面目な事務員である。


「あと、さっき戸締りする時に、病院の入り口で涼川さんと会いましたよ」


愛果の口から出て来た後輩の名前に、山尾は壁掛け時計を振り返った。


彼女の勤務時間が終わる頃合いだったのだ。


「何か言ってた?」


「いえ、遅くまでお疲れ様ですってご挨拶だけ」


「ふーん・・・そっか・・・」


報告は終わったと丁寧に頭を下げて二階のロッカーに上がって行く愛果にお疲れ様を伝える。


彼女達は高校の同級生らしいが、山尾が知る限り親しくしている様子は無かった。


涼川の同級生ということなら、自分の後輩に当たるのだが、市内でもマンモス校だったため、彼女のことは認識していなかった。


恵のことだから、明かりが消えていたら、裏手の自宅に回って来たのだろうが、山尾医院は診療時間を過ぎても明かりが灯っていることがしょっちゅうなのだ。


狙ったかのようにご近所さんたちが、まだ診て貰える?と尋ねて来るせいである。


「一人だったの?」


森井の質問に愛果がそうですと一つ頷く。


「甥っ子くんが居なかったなら、いつものお誘いね、若先生」


ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべて肩を叩いて来る森井の方は見ずに、スマホを早々にポケットに突っ込んで立ち上がる。


「うちの子押し付けられる前に、お目当ての子をどうにかして貰わなくちゃ」


「・・・それは向こうに言ってくださいよ」


開き直りとも取れる返事に、森井が簡易キッチンで洗った器具を滅菌器に並べながらこちらを振り向いた。


「若先生のアプローチは、ちょっと分かりにくすぎるから」


痛いところを突かれた。


穏やかで平穏な日常に、波風立てずにひと匙の恋愛要素を含ませる。


ささやかな幸せで十分だと思っていたのだが、ささやかすぎて進展していないのは間違いなくこちらが悪い。


のだとは思うが、彼女の気持ちを探っても、親しさ以上の何かが見受けられないのだから仕方ない。


三十路を過ぎれば、さらに色んなことに慎重になる。


このままいけば、芹南の方が先に結婚するのではないかと最近では思えてしまうほどに。


医者として一人前になって、みんなを見送って、本当に心から安心出来た時に初めて自分のことを考えられると思っていた。


ようやく考えられそうな時が来ても、つぎは相手に全くその気がない。


泣いている子供をあやして注射を打つ術は知っていても、その気がない相手をその気にさせる方法なんて知る由もない。


強引とは真逆の生き方をして来た自分には、適切なアプローチがさっぱりわからないのだ。

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