第26話 秋初月その2

夕べやり取りした最後のメッセージは、仕事が終わったら連絡するね、おやすみ、だった。


いつも深夜帯まで起きている朝長は、愛果が起きる頃には大抵出社しているからすごい。


”お疲れ様です。ごめんなさい。体調崩しちゃって早退するので、約束キャンセルさせてください”


キャンセルさせてください、と送った直後に着信画面が表示されて、あわててテーブルにスマホを下ろしてしまう。


「電話だけど、大丈夫?出られる?」


「あ、はい・・・あの・・・ここで出てもいいですか?」


立ち上がってロッカーのある二階に上がる気力も体力も残っていない。


申し訳なさそうに尋ねた愛果に、森井がいいわよいいわよ、誰も居ないし、と頷いてくれた。


「もしもし?」


『愛果、大丈夫?まだ医院だよな?』


心配している様子が伝わって来る朝長の声に、思考がたわんで涙腺が知らず知らずのうちに緩んでくる。


声を聞くだけで泣けるだなんて、もうこれが恋じゃないなら、なんだと言うのか。


「うん・・・ごめんね・・・お店、予約してくれたよね・・・」


『そんなのいいよ。今から帰る?』


「ん。着替えて頑張って帰る・・・・・・」


今の一言で、気合を入れなくては帰れないことが伝わってしまった。


片道20分ほどの距離は、健康体ならちょうどよいお散歩になるが具合が悪い時にはマラソンコース並みに感じられる。


「大丈夫だから・・・・・・また、明日、起きたら連絡するね」


多忙な彼に心配を掛けたくなくて、慌てて言い直せば。


『15分で行くから、待ってな』


「え・・・いいよ。仕事中でしょ、朝長」


『アポが早く終わったから、駐車場で仕事しながら待ってようと思ってたんだよ。ちょうど良かったな』


「ダメダメ・・・会社で仕事して。移ったら困るし」


『キスしないから平気』


「・・・!?」


ぎょっとなった愛果を置き去りにして、一方的に通話が途切れた。


呆然とスマホを見つめる愛果に気づいた森井が、大丈夫?と心配そうに声をかけてくる。


「う・・・あ・・・え・・・あの・・・・・・む、迎えに来る・・・って」


回らない頭で、朝長から告げられた言葉を復唱する。


キスしないからって、たしかに一度もしたことはないけれど。


え、待って、いまそれを言うの?


ただでさえ回らない頭がさらにパニックを引き起こしそうだ。


胸を押さえる愛果に、森井が気持ち悪いのではないかと尋ねて来て、平気ですとかすれ声で返した。


これ以上余計なことを考えたら、心臓が口から飛び出しそうだ。


「あ、そうなの?お家の人?良かったじゃない。若先生に言ってくるわね。一人で二階上がれる?ふらつかない?」


「はい・・・・・・すみません・・・受付・・・」


「いいのよいいのよ。しんどい時はお互い様よー。今日はいつもの患者さんたち終わってるし、後は若先生と二人でも大丈夫よ、安心して休みなさいね」


森井の優しい言葉にこくこく頷いて、ご迷惑をおかけしますと頭を下げて二階へ続くドアを開ける。


階段を上がるごとにふわふわと身体が揺れて、いつもよくこの階段を駆け上がったり駆け下りたり出来てたなと不思議に思った。


重たい身体を引きずって、ワンピースに着替えて、脱いだナース服をロッカーに戻す。


今日はデートのつもりだったから、新しいチェックのワンピースを着て来てよかった。


マスカラも二種類重ねてあるし、顔色は悪いけれど普段の地味な愛果よりはいくらかマシのはずだ。


よろよろと一階まで下りると、心配顔の山尾と森井が用意した薬を持たせてくれた。


お礼を言うと同時に、医院のドアが開いて、若先生ー!と子供の声がした。


「また拓だな。森井さん、長谷さんをご家族の車まで連れて行ってあげてくださいね」


「いえ、ほんとに大丈夫です」


「万一転ぶと危ないからね。拓ーどうした?また転んだ?」


スリッパも履かずに駆け込んできた近所に住む顔なじみの子供の前に山尾がしゃがみこんだ。


「そこで転んだー!母ちゃん懇談会で姉ちゃん部活だから、先生んとこ来た」


赤くなった肘を指さした拓の頭を撫でて、山尾が診察室へと案内していく。


「泣かずにここまで来てえらいえらい」


優しい手つきで子供の頭を撫でる彼の姿を見るたび、キュンとなってさらに胸を焦がしていたけれど、いま同じ場所にあるのは暖かい気持ちだけ。


いい職場で働くことが出来て幸せだなという純粋な感謝だけ。


ああ、完全に山尾先生への気持ちは終わっていたんだ。


ひとつ自分の中ではっきりとした答えが出たら、途端朝長に会いたくなった。


靴を履いて、森井に付き添われて医院の外に出ると、停まっていた車から今一番会いたい人が降りて来た。


「愛果」


柔らかい呼びかけに、泣きそうになったのをぐっとこらえて、森井にもう大丈夫ですとお礼を言って頭を下げる。


朝長が広げた腕に飛び込むことに、もう欠片の迷いもなかった。

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