第25話 秋初月その1
「あら、風邪貰っちゃったかしらね・・・身体怠い?」
夕方出勤したときは平気だったのに、患者の応対を続けて行くうちにだんだんと息切れするようになって、今では椅子に座っているのもやっとの状態。
数時間で一気に悪化した症状に、思考のほうが追いつかない。
お大事にと患者を見送った途端、カウンターの内側でペタンと突っ伏してしまった愛果に気づいた看護師の森井が、最近流行ってるものねぇと零した。
「身体重たくて・・・熱っぽいです」
「んー・・・ちょっと失礼・・・あー熱あるわねぇ。若先生ー」
ひょいと額を包み込まれて、すぐに森井が診察室に居る山尾に呼びかけた。
いや、山尾に心配を掛けたくはないと平気ですと必死に言い返すより早く、受付と診察室を隔てるカーテンが開けられて、白衣姿の山尾が顔を覗かせた。
「はいはい。やっぱり熱上がって来た?午後から休んでもらえば良かったね」
「み、診て貰わなくても・・・」
さすがに雇い主の前で洋服をはだけさせる勇気は無くて首を振った愛果に、山尾大丈夫だよと穏やかに答える。
するりと熱を持つ首筋に手を当てた彼が、うんうん頷いた。
「薬出すから、今日は帰ってゆっくり休んでくださいね。明日は無理しなくていいから」
まるで患者に言うように、お大事にと付け加えた山尾が、院内にストックしてある薬箱を取りに奥へ戻っていく。
「す、すみません・・・・・・」
午前中はちょっと風邪っぽいかな位だったのに、こんなにしんどくなるなんて想定外だ。
今日は仕事帰りに朝長と会う約束をしていた。
長谷一家との食事会で明らかになった彼の本意を知ってから、愛果の彼に対する気持ちは一気に加速している。
朝長がこれまで愛果に示して来た言葉や行動のすべては、愛果に対する純粋な好意だったのだと気づいたら、嬉しくて照れ臭くて居た堪れなくて、同時に申し訳なくもなった。
彼は、どんな気持ちで山尾の背中を見つめる愛果を眺めていたのだろう。
用意された出世コースを蹴ってまで、愛果に誠意を見せようとしてくれた彼の気持ちに応えたい。
朝長ときちんと向き合いたい。
思えば思うほど、これまでと同じようには出来なくて、届いたメッセージへの返信に倍の時間が掛かったり、掛かってきた電話でも、やたら声が上擦ることが増えた。
それもこれも、朝長を意識しすぎているせいだ。
最近では、手を繋ぐだけでは物足りなくなってしまって、そんな自分に戸惑ってすらいる。
朝長は、愛果を急かすことは無かった。
未だに愛果の気持ちが山尾に向かっていると思っているからだ。
自分を好きではない相手とどうこうするつもりは彼にはないのだろう。
だから、朝長は愛果を待つ、と言ったのだ。
愛果の恋愛経験は、会社員時代の一度きり。
それすらも、キス止まりだった。
自分の容姿に自信が持てないまま始めた恋愛は、恋人に自分のすべてを曝け出す勇気を持たせてはくれなかった。
誠実で穏やかだった相手も、交際して何か月も愛果が拒み続ければ最終的には飽きて離れて行った。
ミニスカートを履けていたあの頃が、奇跡としか思えないレベルの今の自分に、朝長とそうなる勇気なんて全く持てないけれど、彼には、彼にだけは、自分の全部を知って欲しいと思えるようになったのは、間違いなく成長なわけで。
遅まきすぎる正当派な恋愛に、三十路過ぎの身体がオーバーヒートを起こしてしまったのだ。
ぐったりと項垂れる愛果の背中を撫でながら、森井が時計を見て顔を顰めた。
早退するタイミングとしては、患者が途切れたこの時間帯がちょうど良いが、片田舎のこの町には、タクシーなんて早々やって来ない。
「それより、歩いて帰れる?タクシーもこの時間だとちょっと掴まらないかもしれないけど」
「か、帰れます・・・あ・・・連絡・・・」
幸い自宅までは徒歩圏内だし、気合を入れればどうにかなる、というかどうにかするしかない。
それよりも、朝長に今日のデートのキャンセルを伝えなくてはならない。
多忙な彼の時間を割いてもらうのだから、早めに連絡を入れておかないと、無駄足を踏ませる事になる。
いつもレジ横に置いているスマホを掴んで、メッセージアプリを立ち上げる。
ここ最近、メッセージのやり取りは朝長とばかりだ。
バリエーションが欲しくて可愛いスタンプも増やして、近所だからとお洒落度ゼロのペタンコ靴に着替えやすい地味なワンピースばかり選んでいたのもやめて、明るい色合いや柄を選ぶようになった。
体型カバーが出来るワンピース一辺倒のクローゼットは相変わらずだけれど、これだけは多分この先一生変えられそうにない。
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