第22話 橘月その2

腰を下ろした瞬間に、二列前のカップルが早速肩を寄せ合うのを目の当たりにして、本当に来て酔ったのだろうかと心配になった。


朝長がカップルシートを取らなかったことに感謝して、映画が始まってから40分。


我慢し切れずに涙を零したら、涙腺が崩壊したかのように涙が止まらなくなった。


朝長が選んだ映画は、記憶を失くしていく妻と夫のラブストーリーで、残り僅かな時間を抱きしめるように真摯に愛情を伝え合う二人の姿と、いま、自分が立っている現実の落差に余計に涙があふれてくる。


鼻をすすり始めた愛果に気づいた朝長は、慰めるように肩を撫でてくれたけれど、彼のこの優しい仕草も結婚前提の恋人としての役割の一環なのだと思うと、素直に受け取ることが出来なくて、そんな自分に幻滅してあとからあとから涙が零れる。


こんなんで幸せになれるのだろうか。


朝長の言葉をどこまで信じてよいのか分からない。


尋ねることも出来ない。


だって、否定以外返って来るわけがないのだから。


朝長は愛果に何も尋ねなかった。


だから、愛果も尋ねてはいけない。


一つだけ確かなことは、このレールは、結婚というゴールに向かって真っすぐに進んでいるということ。


父親の後押しがあったとはいえ、自分でこのお見合いを受けることに決めた。


朝長と将来を考えようと決めたのも自分自身だ。


だってこれがもう、最後のチャンスだと思ったから。


いまの自分を認めて、好きになれる最後のチャンスだと、そう、思ったから。


すっかり人の居なくなった館内で、朝長が申し訳なさそうに口を開く。


「こんなに泣くなら、コメディー映画にしたら良かったな。次からはそうするよ」


「違うの、いいの。すごく感動した。ありがとう・・・みっともないくらい泣いてごめ・・・」


目尻の涙を拭おうとした愛果より先に、温度の高い親指が優しくそこをなぞった。


朝長の指だと認識した途端、心臓が跳ねた。


「あんまり擦ると目、腫れない?明日職場で心配されるだろ」


「だ・・・・・・い、じょうぶ」


丁寧に反対の目尻も拭った彼が、じいっと充血した両目を見つめてくる。


あの頃は、先に目を逸らすのはいつだって相手のほうだったのに。


彼の視線が真っ直ぐ自分に向けられているという事実に、身体が火照り始める。


「高校の頃みんなで行った映画ってなんだったっけ?出始めの4Dとかだったよな」


「泥棒の映画・・・だったよね」


「ああそうだった。席順グーパーで別れるって話になって、慌てて口裏合わせしたんだよ。長谷の隣に座りたくて。今なら結構あっさり言えるのにな。なんでか、あの頃は言えなかったな」


立てる?と自然に手を差し出した彼が、照れ臭そうに笑った。


あの頃は、毎日のように朝長と目が合っていたし、そのたび笑いかけていた。


一瞬目を見開いてちらっと笑って先に目を伏せるのは、決まって朝長のほうで、それを見届けてから込み上げてくる笑みを必死に堪えるのは愛果のほうだった。


「・・・・・・私も、言えなかったこと、沢山あるよ」


手を伸ばして良いのかどうかも迷ってしまう自分が悔しい。


高校生の長谷愛果だったら、絶対に迷ったりしなかった。


そろりと彼の指の端を撫でたら折り曲げた指に握りこまれた。


予想以上に強い力で引っ張り上げられる。


あっさり身体が浮き上がって、自分が身軽になったような気さえする。


一気に近づいた朝長が、愛果の顔を覗き込んできた。


「焦らなくていいから、ゆっくり俺のこと、好きになって欲しい。俺はいくらでも待てるよ」


穏やかな声はあの頃よりもずっと落ち着いて響いた。


それなのに、一気に心臓は早鐘を打ち始める。


それは、あの日愛果が山尾達に向けた視線への、朝長の返事に聞こえた。


彼はすべてを承知して、それを飲み込んででも、この結婚を推し進めたいと思っているのだ。


それがどんな理由から来るのかは、分からないけれど。


「・・・・・・・・・うん」


気もそぞろになりながらどうにか小さく頷けば。


「あとさ、そろそろ、名前で呼んでいい?」


急に声色を明るくした朝長からの質問に一瞬ポカンとなった。


名前?


「え!?あ・・・」


高校時代彼は愛果の長谷、と呼んでいた。


けれど、今は朝長の呼ぶ長谷は二人いるのだ。


「本部長の前で、名字呼び捨てにするわけにもいかないから・・・出来れば・・・」


「うん、愛果って呼んでくれて構わない・・・あの・・・私は・・・もう、ちょっと・・・・・・このままで・・・いいかな・・・?」


山尾のことが吹っ切れて、朝長との結婚に本当に前向きになれるまで、猶予期限が欲しい。


お見合いを進めた後でこんなことをいうのは理不尽な気もしたが、朝長は笑って頷いてくれた。


「いいよ。愛果が、朝長になる時までに呼び名変えてくれたら」


まるで心からそうなることを願っているような響きに、意図せず胸がキュンとした。

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