第29話 moon phase 25

二十代で未経験というならまだしも、三十路を過ぎても誰とも経験が無いというのは、確実にマイナス要素にしかならない。


容姿にコンプレックスを感じるようになってから、鏡を覗く時間が極端に少なくなっていった愛果は、当然高校生以降水着を着た事も、ミモレ丈より短いスカートや、足のラインを拾うスキニーデニムを履いた事もない。


隠して隠して生きて来た愛果にとって、どれだけ思いを寄せる相手であっても簡単に身体を赦すことは出来なかった。


昔付き合った恋人ですらそうだったのに、いま愛果の目の前にいるのは、学生時代一番胸をときめかせた朝長なのだ。


一番好かれたかった相手で、付き合った後の色んな素敵な妄想を膨らませた相手でもある。


間違いなく朝長に惹かれているし、彼に愛されたいとも思っている。


だからこそ、最後の一線を踏み越えるのがどうしようもなく怖い。


あの頃の、一番眩しかった愛果を一番知っている朝長に、何も隠さない自分を本当に愛して貰えると思う?


ぎしりと胸が嫌な音を立てた。


まだ言えない。


その勇気は持てない。


「お見舞いもありがとう。起きたらお母さんがゼリー見せてくれてびっくりした。しかもあんなに沢山」


「愛果のご両親には媚びておかないと。可愛い一人娘を手放したくないと思われたら困るから。俺も好かれようと結構必死」


おどけたように言った朝長が、ある意味商談より緊張するよと零した。


父親がいうには次代の西園寺不動産を背負って立つ出世頭。


そんな彼がここまで気を遣ってくれるのは、愛果と結婚するためだ。


これほど真っすぐに愛情を向けられていたことに、どうして今まで気づかずにいたんだろう。


一体自分は朝長の何を見てきたんだろう。


だからこそ、彼が選び取った未来に後悔してほしくない。


「もう十分すぎるくらい好かれてるから平気よ。あの・・・朝長・・・・・・ほんとに、営業本部への異動はしなくていいの・・・?」


慎重に尋ねた愛果に向かって、朝長が眉を持ち上げた。


「あれ、もしかしてこの間本部長に言った事、パフォーマンスだと思ってる?」


「そういうわけじゃないけど・・・・・・・・・ごめん、最初はてっきり出世したくて、私と結婚するつもりになったんだと思ってたから」


「あー・・・・・・・・・まあ、あの場所で出会ったらそう思うよな・・・・・・でもさ、愛果はあの頃、少しも俺との未来を思い描かなかった?俺は、志望する大学が同じって聞いた時、めちゃくちゃ嬉しかったし、大学入ってからも、キャンパスでお前に会えるの嬉しかったよ。だから、お見合いの席に愛果が来た時、また会えて嬉しかったし、出世は関係なしに純粋に結婚したいと思った。ちょっとでも今の俺を好きになって貰いたくて、これでも頑張って愛果の好きな優しい男であろうと努力したつもりだよ。優しい俺は、大好きなんだろ?」


「・・・・・・え・・・?」


言った覚えのない台詞が聞こえて来てキョトンとなる。


いや、ずっと昔からそう思っていたし、それは事実なのだけれど。








・・・・・・・








「ほら、長谷。焼きそばパン」


カフェテリアで顔を合わせるなり、手にしていた焼きそばパンを差し出されて、愛果は面食らった。


「なんで!?」


「購買で見かけたから、食べるかなと思って」


「なんで焼きそばパンと私がセットになってんのよ」


「長谷に教えて貰ったあの焼きそばパンを超えるやつにまだ出会えてないんだよなぁ」


大学生になってさらに大人びた朝長は、女子の注目を集めることが増えた。


今も遠巻きにこちらを見ている女の子たちの視線をひしひしと感じる。


「あれはもう殿堂だからね」


「たしかに。授業どう?」


「んー面白いけど課題多くて大変かも。そっちは?」


「俺のとこもおんなじ。後さ、俺部活の先輩がここ通ってて、フットサルサークルに誘われたんだよ」


「へー。面白そうだね。やるの?」


「うん。女子マネも何人かいるんだけど・・・・・・長谷も良かったら見に来いよ」


「私マネージャーって柄じゃないから無理だよ」


「それは無理にとは言わないけど・・・・・・先輩にも会わせたいし」


照れたように笑う朝長を見上げて、受け取った焼きそばパンの袋を軽く揺らす。


「焼きそばパンの友として?」


「ははっ!そう。殿堂入りって紹介させてよ」


眩しそうに目を細める朝長は、悔しいくらいかっこよかった。


必死に受験勉強を頑張って本当に良かったと心から思えた。








・・・・・・・・






懐かしそうに微笑んだ朝長が目を合わせたまま口を開く。


「愛果が俺と一緒の大学行く為にめちゃくちゃ受験勉強頑張ったって教えてくれて、嬉しかったよ」


「え、そんなこと言った!?」


「熱に浮かされながらな」


「~~っ!?あの日!?」


やっぱり余計なことを言っていたのだ。


さっき確認したのに。


穏やかな笑顔にすっかり騙されてしまった自分が悔しい。


ぎょっとなって身を乗りだせば、朝長が真っ赤になった愛果の頬を指先でつついてきた。


悪戯っぽく笑われて、彼の顔を直視できずに視線をつま先へ逃がす。


「そう。車の中で俺の手ぇ握って盛大に告白されて、本気で家に帰すのが嫌になった。熱あって良かったな」


「はあ!?」


熱がなかったらどうなってしまったのだろうと、色んな意味でソワソワする。


「ちゃんと両想いだったって分かってホッとして、けど悔しくもなった。でも、あの頃もし付き合ってたとして、そのままずっと今でも一緒にいるかどうかは怪しいだろ?こないだ言った通り俺はずっと仕事優先で生きて来たから、お前に愛想尽かされてた可能性も大いにある。だから、このタイミングで良かったよ」


「そう・・・かな・・・」


昔の自分だったら、きっと迷わず朝長の隣に並んで顔を上げて歩くことが出来た。


今でいいと朝長が現在の愛果を認める発言をしてくれたのに、早速怖気づいた自分が情けなくて唇を噛む。


「両親公認って、いいよな」


「ん?まあ、お見合いだしね」


「あの頃より、俺も大胆になれる」


「・・・・・・え?」


「風邪治ったから、もうしていい?・・・・・・・・・ここに、キス」


思わぶりに親指で唇をなぞられて、慌てて引き結ぶ。


「・・・・・・好きだよ」


小さく呟かれた魔法の言葉に、胸の奥がきゅんとなった。


「う・・・ん・・・・・・ぁ・・・」


でも、ここ職場の駐車場で、と言いかけた愛果の唇を優しく朝長のそれが啄んだ。


そっと温度を確かめるように触れた唇が角度を変えて重ねられる。


綴じた瞼の裏側に、照れたような彼の顔が浮かんだ。


目を開けて先に真っ赤になるのは、間違いなく自分だと思った。






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