第30話 紅葉月その1

街路樹が等間隔で植えられて綺麗に整えられた目抜き通りの歩道の片隅で、愛果は目の前の大きなビルを見上げた。


昔の自分は、集まってくる視線が煩わしくて人目の少ない場所を選んでいたが、今は別の意味で他人の視線が怖くて、俯いて人の少ない場所を選ぶようになった。


大学生の頃、容姿が変わり始めた愛果を遠巻きにしながら、好き勝手に批評してくる声をいくつも聞いたからだ。


”え、ほんとにあの子なの?全然違うじゃん”


”間違いなく本人。高校の頃はすっごいモテてたけど、いまはアレ”


”まあ、あのグループ最近人気落ちちゃったしねー。過去の栄光ってやつでしょ”


全部のものが手元から離れて、見た目が変わった自分に残ったのは、コンプレックスと恐怖心。


洋服をネット通販か、母親が無理やり連れて行く知り合いのお店でしか買わなくなってから、ウィンドウショッピングはやめてしまった。


ご試着どうぞと言われても、着替える勇気がそもそもないから。


だから、駅前のメインストリートの賑わいは気後れしてしまっていたのだが、今は、ほんの少しだけ顔を上げることが出来る。


理由は簡単。


好きな人が出来たから。


誰かに向かう気持ちをひとつ手に入れただけで、一気に世界は広がって、急き立てられるように様々な感情が胸の奥から湧き上がって来た。


そのうちの一つが”綺麗になりたい”ということ。


昔のような体型を取り戻すことは不可能でも、俯くことをやめて、明るい色の洋服を着たいと思うようになった。


血色がよく見える色は自分をさらに膨張させてしまいそうで、ずっと敬遠してきたけれど、実際袖を通した明るい色のワンピースは、心までも浮き立たせてくれた。


身にまとうもの一つで、視線だって一気に上がるのだ。







土曜診療を終えて帰宅した愛果に、困り顔の母親がお父さんのところにお使い行ってあげて、と忘れ物の書類が入った封筒を指し出して来た時、いつもデートのたびに朝長が愛果の地元まで来てくれていた事を思い出した。


すっかり出不精になってしまった愛果を、朝長は無理して人混みや繫華街に連れ出そうとはしなかった。


だから彼の気遣いにすっかり甘えて、食事もドライブも映画も、全部朝長主体でお任せコース。


さすがにこれはまずいのではと、久しぶりに街に出たついでに、朝長にちょっと会えないかな?とメッセージを送った。


父親が勤める営業本部が入った西園寺不動産の本社ビルから、朝長の働く支店までは電車で一本で移動できることを父親から教えてもらったこともあって、少しだけ顔が見られたらいいなと思ったのだ。


とはいえ忙しい彼の事だから、外出中や会議で出て来られない可能性も十分考えられたけれど、その時は、久しぶりに駅前をぶらついて帰ろうと思っていた。


お天気もいいし、たまには都会に出ないとね、と笑った母親に背中を押されたせいもある。


長谷家の周りは昔からある田舎の、よく言えば閑静な住宅街で、コンビニすら駅前まで出なくてはないレベルなので、当然カフェなんて一軒もない。


学生時代は、田舎がいやで、遊ぶとなったら高校の近くの繁華街がほとんどだったけれど、今となっては人の少ない田舎に心底感謝している。


食品メーカーを退職してから、同僚たちとは疎遠になり、学生時代の友人とはすっかり距離を取っていた愛果に、地元の友人は皆無。


これといった趣味もなかったので、自宅と山尾医院の往復のみしていたが、これからは出かける機会も増えるだろうし、新生活に向けてあれこれ見ておきたいものもある。


目標が出来ると不思議と動けるもので、重たい腰を一度上げたら靴を履く足に迷いはなかった。


愛果の両親は、朝長との交際でみるみる昔のような明るさを取り戻していった娘を嬉しく思っていたし、朝長には本当に感謝していた。


父親に至っては、愛果が朝長の職場の場所について尋ねた途端、目を輝かせて案内しようか?と身を乗り出して来たくらいだ。


けれど、すぐに、会議が入っている事を思い出して、愛果に支店までの行き方を伝えた後、何度も愛果の肩を叩いてオフィスに戻って行った。




”お父さんにお使いを頼まれて出掛けたついでに、支店の近くまで行こうと思うんだけど、少しだけ会えないかな?一瞬顔を見れたら、と思って・・・忙しくなければ!!”


”いまミーティング中だから、ちょっと待たせるかもしれないけど、時間ある?”


”全然あるから待ってるね”


”了解。信号渡った先のコンビニに居てくれてもいいよ”


そんなやり取りを経て、支店まで辿り着いたわけだが、信号を渡った先のコンビニが二つあってどちらのことはわからない。


メッセージを送ろうかとも思ったが、ミーティング中だと返事が来たことを思い出して、大人しく会社のビルの前で待つ事にした。


土曜の午後は、駅もメインストリートも大勢の人でにぎわっていた。


平日休日関係なくいつも閑散としている地元とは大違いである。


暫くすると、ビルの前から男女数人のグループが出てきた。


その中に、スーツ姿の朝長を見つけて一瞬声をかけて良いものかどうか迷う。


彼一人だけだったならまだしも、同僚と思わしき男女が他にも何人もいるところで名前を呼んで彼が困ったりはしないだろうか。


結婚を前提にしたお付き合いとはいえ、どこまで社内に報告しているのかも聞いていない。


快活そうな雰囲気の女子社員の颯爽とした姿を見ると、猶更彼の名前を呼べなくなった。


ここは大人しく見送って朝長にメッセージを送ろうと決めた矢先、エントランス前で視線を向けていた女子社員とバッチリ目が合ってしまった。


くりっとした愛嬌のある目元が印象的な彼女が隣の朝長を見上げる。


「あ、あの方じゃないですか?朝長さん。」


「ほんとだ、愛果」


片手を上げた朝長がこちらに向かってくるより早く若い男性社員と女子社員が笑顔を向けてきた。


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