第28話 紅染月

「迎えに来てくれてありがとう。あと、この間は迷惑かけてごめんね。助かりました」


山尾医院の駐車場に車を停めて愛果が来るのを待っていた朝長は、助手席に座ると同時に待ちかねていたように腕を伸ばして来た。


「元気になって良かったな。ちゃんと顔見せて?」


頬を包み込まれてシートベルトを着ける前に引き寄せられる。


あの夜も同じように朝長は熱で火照る愛果の頬を包み込んだ。


けれど、触れた場所から伝わって来る熱は、この前の夜よりずっとリアルで、感覚さえも熱で鈍らされていたのだと気づく。


節ばった指が輪郭をたどって、親指の腹が頬の熱を確かめる。


いたわるような優しい手つきにドキドキしてしまって、上がった心拍数と体温を隠し切れない。


息を詰めるとますます頬が火照る羽目になった。


「まだ顔赤いけど?」


窺うようにわざとらしく両頬を交互にまじまじと眺める彼の手を押さえる。


「~っ朝長が離してくれたらすぐに戻ると思う!」


我が物顔で唇の端を撫でたり耳たぶをなぞる悪戯な指先に好き勝手させていたら、いつまで経っても顔は赤いままだ。


これも全部、良い夫になるための義務ではなくて、朝長から愛果への愛情表現の一つなのだと理解したから、今では視線を感じるだけで頬が火照る。


まだ朝長にはちゃんと自分の気持ちを伝えられていないのに、心は一足先にあの頃に舞い戻って、恋人未満の関係を前に推し進めようと背中を押してくるのだ。


過去の自分とのシーソーゲームは、しばらく終わりそうにない。


「声も元気そうだし、安心した。もう大丈夫だな」


「あ、ああのね、朝長!この間、私調子悪かったから、車の中で何話したか、あんまり覚えてないんだけど・・・変なこと言ってないよね?」


「ん?言ってないよ」


視線を合わせた朝長が安心させるように答えてくれてホッとした。


どうやら大きな失態は冒していないらしい。


朝長に会えた安堵と、彼の事ばかり考えて過ごした時間のせいで、昔の感情と今の感情がごちゃ混ぜになって余計なことを言ってしまった気がしたのだが、気のせいだったようだ。


あの夜、愛果を迎えに来た朝長は、自宅の玄関まで付き添ってくれた。


予告なしの来訪に驚いて玄関に飛び出して来た母親に、愛果の代わりに症状を説明してゆっくり休ませてやって欲しいと言って帰って行った朝長は、翌日も仕事のついでにゼリーの詰め合わせを届けてくれて、母親の朝長に対する好感度を爆上げして帰って行った。


山尾が処方してくれた薬はよく効いて、翌日の昼には微熱になっており、母親が用意してくれたおかゆを食べてウトウトしているうちに朝長はやって来て、玄関先で母親と立ち話をしてすぐに帰ったと聞かされた時には、起こしてくれればよかったのに、と母親に八つ当たりしてしまった。


ノーメイクのパジャマ姿、お風呂にも入れていないことをすっかり忘れて母親を詰った愛果に、あらあらそんなに会いたかったのね、ごめんなさいねー、と笑われて、いやむしろ、グッジョブなのでは、と考えを改めて、後先考えずに気持ちが走った自分に驚いた。


心配をかけてしまったし、迷惑もかけてしまった。


だから、少しでも早くお礼を言いたかったのだ。


というのは建前で、ただ純粋に彼の声が聞きたくて、顔が見たくてたまらなかった。


意識が朦朧とした愛果を助手席に乗せた後、朝長はシートベルトに手を伸ばして一瞬だけ動きを止めた。


しんどさと熱で今にも下りてしまいそうな瞼をどうにか持ち上げて、朝長を見つめ返したら、目を閉じるようにそっと指で眦を撫でられて、素直に従ったら額に柔らかい熱が触れた。


彼の唇だと理解した直後に、シートベルトが回されて、寝てていいよと優しい声が降って来た。


”キスしないから平気”


彼が迎えに来る前に電話が言ってきた台詞をぼやけた頭で思い出して、きゅうっと胸が苦しくなった。


しないって言ったくせに。


ああでも、唇じゃないからいいのか。


風邪が治ったら、ちゃんと朝長とキス出来るのか。


だって移る心配がないから。


と走り出した車内でつらつらと詮無いことを考えているうちに本格的に眠気が襲ってきて、そのあたりのことはおぼろげにしか記憶に残っていない。


二人は結婚を前提にしたお付き合いを続けている恋人同士で、両親だって公認の仲で、未成年というわけでもない。


キスをしたって構わないし、当然それ以上のことだって許される関係なのだ。


お見合い結婚だって、今時婚前交渉なんて珍しくもない。


本人たちにその気さえあれば。


けれど、朝長と愛果の関係はあの夜まで、まるで中学生カップルのように手を繋ぐだけだった。


それは、朝長が愛果の気持ちを待つと言ったからだ。


愛果の心に山尾が残っている事に気づいた彼は、強引に山尾の存在を押し出すことはしなかった。


山尾への未練が立ち切れていないことを黙ったままお見合いを進めたことへの罪悪感はずっと愛果の胸の奥にあって、けれど、彼が出世の為に愛果との結婚を選んだと信じて疑わなかったから、どうせ本当の意味で夫婦にはなれないのだから、これ以上彼に惹かれることもないだろうと思っていた。


でも今は違う。


朝長は自分の出世とは関係なく愛果を望んでくれた。


彼から向けられる真摯な思いはただ愛果を慈しむためのもので、何かを得るためのものではなかった。


それに気づいたから、自分の気持ちにももう嘘は吐けない。


吐けないのだけれど。


愛果が朝長に自分の気持ちを打ち明けることは、それすなわち二人の関係をその先に進めることを示している。


つまり、キスも、その先の恋人同士の行為も。


大人になった朝長と恋人として接していれば、彼が愛果の知らない場所で知らない女性たちと恋を育んできたことは嫌でも伝わってくる。


愛果に向ける眼差しも、迷いなく触れる手も、彼の経験値を感じさせて来るから、社会人になって少しだけ付き合ったキス止まりの愛果は、どうしても尻込みしてしまうのだ。


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