第43話
「なんだって!? 関はまだ生きてんのか!?」
工場跡地から逃げ出した木之下は、榎原の運転する車で仮の住処にしていたアパートへと戻っていた。何度かかけてようやく電話に出た宝来は、木之下の報告に声を裏返して絶叫していた。
「今頃、警察に捕まっているか、それとも必死に逃げているかのどちらかだろう」
「て、てめえ、なに他人事みてえに言ってんだ! 関を逃した上に密航者の強奪にも失敗しやがって、デカい口叩いてたくせにどういうことなんだッ! 約束を守れなかったらどうなるか、忘れてるわけじゃねえよな!」
気が触れたように叫ぶ声。任務が失敗に終わったことで自分の命に危機が及ぶことを恐れているのだろう。たとえ脅しだとしても、瑠奈の身に危害を加えかねない一言に怒りが喉元までせり上がってきたが、すんでのところで飲み込む。
「任務を失敗したことは事実だが、あんたにも失敗の原因はある」
「なんだと? 俺のせいだっていうのか!」
「関は最初から上海マフィアを裏切るつもりだった。どこの誰だか知らないが、相当腕が立つ男を雇っていたぞ。そんな話は聞いてない」
「関が、上海を裏切っただと……?」
「奴は自分の野望のためなら、身内であろうが殺す男だ。密航費用を独り占めしようと考えてもおかしくはない」
抑揚のない口調で伝える。電話口の向こうでは、自分の思い通りに事が運ばなかったことを物に八つ当たりしている様子が聴こえた。
陶器が割れるような音が聞こえると同時に、荒々しく扉を蹴破るような音がした直後――蛙を踏み潰したような悲鳴が聴こえると激発音が木之下の鼓膜を震わせ、通話はそこで途切れた。
何事だと再びかけ直すも、繋がらない。嫌な予感がした木之下は、しつこく番号を押したが結果は同じ――。
「おい、どうしたんだよ……」
畳の上を行ったり来たりと繰り返していた榎原が、泣きそうな声で訊ねてきた。会話を遮るように手元の携帯が震える。
表示されている番号は宝来のものだったが、一呼吸置いて電話に出た木之下の名を呼んだのは全くの別人だった。
「よお。さっきは世話になったな、色男」
耳に流れ込む怨嗟に満ちた声。
「宝来を殺したか。関克洋」
「そういや、溝鼠に聞いたぞ。お前、草薙と同じ傭兵だったんだな。しかも〝狼〟なんて大それた名で知られてたみたいじゃねえか。それがわかっていれば、こんな無様な結果にならなかったのによ」
怒りを表すように再び響く激発音。木之下は自然と携帯電話を握りしめていた。恐らく、潜伏場所を知られた宝来は関の手によって、惨たらしい死体と成り果てたに違いない。
「それと、どうやら可愛い人質を取られて俺を狙ってたみたいだな。目が見えない女ってのは、なかなか使い勝手が良いとは思わねえか?」
「貴様……瑠奈に手を出したら殺すぞ」
感情的に荒らげた声に、関は壊れたように高笑いをして答えた。
「俺は、俺の行く道を遮るやつは、誰であろうと許さない。いいか、一時間以内に俺が指定した場所へ来い。来なけりゃ殺すだけだ」
居場所を告げられ、一方的に電話を切られた。思わず床に電話を叩きつけ、土壁を思い切り殴りつけた。
車のカギを手にし、背中に追い縋る榎原の声を置き去りにして木之下は部屋を飛び出した。運転席の扉を開いて飛び乗り、イグニッションキーを回す。
頼む――これ以上、俺から大切なものを奪わないでくれ。アクセルを踏み込みながら、前方の車を次々に追い越しながら、胸元に揺れるロザリオを握りしめる。
瑠奈が無事なら、俺はどうなってもいい。
✽✽✽
関と初めて顔を合わせたクラブは、臨時休業の看板が降りていた。足を踏み入れると不自然なほど静まり返り、客の姿は当然のこと、ホステスの姿もオーナーの姿も見当たらない。
店外に怪しい人影はなかったが、だからといって安心はできない。いつ、どこから隠れ潜んでいる敵が現れてもおかしくない――グロックを手にエントランスから店内のフロアへと歩みを進める。
薄暗い店内に纏わりつく香水とアルコールの残り香の中、無人のボックス席を見渡す。天井のミラーボールも回転していない。フロアの通路をダブルハンドで構えながら最奥まで辿り着くと、両手足を縛られた瑠奈がソファに転がされていた。
口にはガムテープを貼られ、身をよじって抵抗を見せている。
「瑠奈!」
急いで駆けより、テープを剥がそうとしたその時――背後から声を掛けられた。
「宝来も馬鹿な野郎だ。不相応に俺の覇道をふさぐような真似さえしなければ、死なずに済んだというのに」
血も凍りつく冷々とした声に、ゆっくり振り返る。白いワイシャツが返り血で真っ赤に染まり、冥い狂気が宿る三白眼の関が銃口をこちらに向けながら、ドア口に立っていた。一歩一歩、靴底を鳴らして距離を詰めてくる。
「おっと、
言われるがままに、木之下はグロックを床に放ち両手を上げた。
「お前がどれだけ名を馳せた傭兵だろうが、この俺に絡んだことを地獄で悔やむんだな。確かに俺をここまで追い込んだのはお前だけだったが、最後に立っているのは俺だと決まっている。今じゃ
木之下を捉える漆黒の銃口。声同様に底無しに冷たい瞳。かつて紛争地でみてきた人間と一緒だった。
この世で最も手強い敵――破滅へと突き進む者特有の覚悟が見て取れた。
五分の条件であれば負けることはない。しかし、自分には瑠奈という存在がいるのに対し、関には護るべき対象がない。
「敵ながら、それなりに愉しかったとでも言っておこう。このあとに本家の連中を始末する大仕事が待ってるからな。悪いが、これでサヨナラだ」
片側の口角を吊り上げて嗤う関の指が、引鉄にかかる。手放したグロックは二メートル先――一メートル横のテーブルに置かれていたクリスタルの灰皿に、視線を向ける。
一か八かの賭けだが、どのみち動かなければ瑠奈を生かして帰すことはできない。
「関……殺される前に、一つだけ聞きたい」
「なんだ?」
「死にゆく祈りを、誰に捧げたい」
サッと、顔色が変わった関が口を開く前に、横に飛んだ木之下はクリスタルの灰皿を掴むと飛び交う銃弾を避け、関の顔面めがけて投げつけた。
同時にフロアへと頭から突っ込んで回転しながらグロックを拾う。鈍い音を立ててよろめく関の顔面は鮮血に染まり、片目は瞼の裂傷で完全に塞がっていた。関が右腕を突き出した瞬間――渇いた激発音が轟く。
フロアに跳ねる空
反撃を試みようと左手で拾い上げようとする関の左腕を撃ち抜く。仰向けに倒れた関が、懸命に身を起こそうとする。立て続けに鳴り響く銃声――。
腰から崩れ落ちる。左右の太腿から流れ出す夥しい量の血液。あと数分もすれば失血状態に陥り、意識が混濁し命に関わるだろう。
並の人間であれば悲鳴の一つでもあげるものだが、関は悲鳴どころか呻き声さえ漏らさない。
雄叫びをあげて立ち上がり、自分を睨めつける関の上半身に引鉄を引くと、大きく仰け反り口から大量の血を吐き出した。
即死に至らない肺を撃ち抜かれるのは想像を絶する苦痛を伴う。もう、満足に呼吸もできないはずだ。それでも関は倒れない。決して目をそらず、背を向けず、立ち向かおうとする。
ふらつく足取りで、一歩、また一歩踏み出す。その度に口から鮮血を吐き出し、グロックのバレルを掴むと己の額に押し当てた。
「どうした……俺は……こんなもんじゃ止まらないぞ……娘を助けたけりゃ……俺を殺していけ……」
見開かれた両目――木之下は関の目を見据えたまま小さく顎を引いた。
迷わず引鉄を絞る。関の体から魂が抜け出て、背中から床に叩きつけられた。
両手足を大の字に投げ出し、仰向けに倒れる。関の屍に向けて十字を切った。
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