第42話
双眼鏡の先、開けた敷地の中央に
手にはそれぞれトカレフが握られている。背後では、密航者が詰め込まれたマイクロバスの運転役である榎原が寒さに震えながら持参してきたカイロを手に震えていた。
「あんた、ずっと同じ姿勢で辛くないのかよ」
「戦地では一日や二日なんて良いほうだ。一週間同じ場所で銃を構え続けることだってある」
自分が銃を握るわけでもないのに、榎原の顔には寒さと、それ以上に緊張感が張り付いていた。
空気を震わせる排気音が徐々に近づいてくる。大きくなるヘッドライトの灯り。懐中電灯で合図を送る上海マフィアに導かれて二台のマイクロバスが横向きに停車した。扉が開くと、ステップを悠然と降りる男の姿に視線が注がれる。
中国人が照らす懐中電灯に照らされ、浮かび上がる男の顔――冷酷な鈍色の光を放つ吊り気味の眼――クラブで邂逅した関に間違いない。
予定通りに事が進めば、李という男が密航者の総数を確認する手筈となっている。木之下の想定通り、恐らくは社交辞令的な挨拶を交わした後に、関は再びバスの中へと戻っていった。中国人の護衛の中には、警戒心が緩んで互いに会話をしているものもいた。
「俺は、そろそろ持ち場に移動していいんだよな」
「ああ。くれぐれもバレるような真似はするなよ」
木之下はレミントンM700の引金に指をかけ、その時を待っていた。ところが、いつまで経っても密航者は誰一人として降りてくることはなかった。それどころか、扉が閉まった。
「待て。なにかおかしい」
「なにがだよ」
移動を始めていた榎原を呼び止める。どうして誰も降りてこない――なにか車内で不測の事態でも起きたのか? あいにくスモークフィルムを貼られた窓ガラスの向こうは覗くことができない。
榎原が疑問符を浮かべてこちらに戻ってくると同時に、中国人に向かって駆けていく影を視界に捉えた。
一見すると、何処にでもいそうな、優男然とした雰囲気の青年にも関わらず駆けながらシングルハンドで構える様は、素人と思えないほど堂に入っている。
まるで静止した人形ターゲットに当てるかのように護衛の頭を撃ち抜くと、全く無駄のない動きで三人を立て続けに殺害した。交錯する銃声、渦巻く怒号が木之下の思考を混乱させる。
「なにが、どうなってんだよ……」
榎原の顔は凍りついていた。かくいう木之下も予期せぬ展開に言葉をなくし、一方的な蹂躙を眺めていた。あの男は、いったい何者なのか――ただのヤクザでないことは確かだが、自分と同じく死が日常的な世界で経験を積んだに違いない。
その場にいた全員の視線が青年に注がれ、飛び交う銃弾をなんなく避けているあいだに、第二陣が飛び出してきた。建物の陰に身を潜めていた四人が中国人の逃げ場をなくすように囲んだ。
木之下の混乱していた思考が、一つの結論を導き出した――関は、最初から上海マフィアを裏切るつもりで密航費用を独り占めするつもりだったに違いない。
自分達が襲われることなど微塵も予想してなかったであろう中国人達は、瞬く間に瓦解していく。射撃のプロと聞いていた王も郭も、名も知らぬ青年の前では始めて銃を握った子供のように相手にもならず、
青年が、相当な修羅場をくぐり抜けてきたことは間違いない。どのような姿勢からでも射抜く射撃も相当高度な技術が必要となる。上海マフィアのボス、李はバスから降りてきた関に中国語で叫びながら銃口を向けたが、一瞬関のほうが早く引金を引いた。
当初の想定とは大きく計画を変更せざるをえなくなったが、やることは変わらない。息を整え、感情を消して狙撃眼鏡を標的に向ける――。
引金に指をかけたその時、風向きが変わると青年は野生の獣のような反応を見せた。
「危ないッ」
木之下は舌打ちをしてボルトを引く。関の頭部目掛けて放った銃弾は青年が獣じみた反応で関を突き倒し、宙を裂いただけで終わった。標的を変更し、即座に二名の頭を撃ち抜く。その間に関は青年に手を引かれ、バスの裏側へと姿を隠した。
痛恨のミスだった。まさか初撃を外すとは思わなかったが、あの青年がいる限り関の命を仕留めるのは難しい。
「お、おい……やったのか?」
蹲っていた榎原が、恐る恐る頭を上げて訊ねてきた。
「肝心の標的を仕留め損ねた。計画を変更する」
「変更だって? 俺はどうすればいいんだよ」
我慢に耐えきれず顔を覗かせた男の頭を射抜いて、たった今組み立てたプランを簡潔に説明した。
「――はあっ!? そんな大役を俺にやれってのか!」
「大丈夫だ。別に射殺しろとは言ってない。ただ、引鉄を弾くだけでいいんだ」
バスの窓を次々に破壊しながら、たった一発ライフル弾を放つ役を与え、木之下は錯乱状態に陥った密航者で溢れる現場へと駆け出した。
精確な射撃で牽制していたことが功を奏し、バスの裏から連中は次の行動に移るのが遅れているようにみえた。そこここに散らばる肉片、肉片、肉片。すえた臭いをばら撒く密航者の間を駆け抜け、接近戦で使用するグロックをシングルハンドで構えながらバスの裏側へと回り込む。
手前から、ガチガチに緊張している男、凄腕の青年、そして関の順で立っていた。今すぐこの場を離れようと青年が提案してが、いまさら遅い。
激発と同時に手前の男の頭が崩れ落ち、目を見開いて振り向いた青年の肩、腹部に命中したが両眼に宿る光が消えることはなかった。
体を反転させて駆け出すと、遅れて背後から追いかけてくる気配が背中に突き刺さる。
――今だ。
左手を上げると、姿を隠していた榎原が言われた通りにレミントンM700の引金を引いた。
放たれた銃弾は、左手を上げた瞬間に振り返った木之下の視線の先――ダブルハンドで構えていた草薙から三メートルほど先のアスファルトを抉って、次の行動を遅らせることに成功した。
榎原には、自分がおびき出した青年を牽制させる目的で射撃を任せていたが、初めてにしてはなかなか筋がある。
突然の狙撃に、一瞬反応が遅れた青年の隙を見逃すほど自分は優しい人間ではない。即座に膝を撃ち抜いて動きを封じた。
「これは罠ですッ! 関さん、逃げてくださいッ」
鬼の形相で姿を現した関に、精一杯の遺言を遺す青年の体は、撃発音とともに倒れて夜空を仰いだ。残すはただ一人――銃口を向けられた関の瞳には憤怒の色が浮かんでいた。
「貴様は……後で必ず殺してやる」
パトカーのものだと思われるサイレンが聞こえてくると、咄嗟に地面を蹴った関はバスに乗り込んでエンジンをかけた。逃すまいとフロントガラスめがけて連発したが止めることは叶わず、工場跡地へ乗り込んできたパトカーをすり抜けて闇夜へと逃してしまった。
赤色灯に染まるアスファルトに別れを告げ、木之下は駆け出す。手負いの獣は、何をしでかすかわからない。
そう。まだ、何も終わっていない。
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