第四章

第39話

 西新宿で起きた発砲事件以来、宝来は姿を見せずに、とうとう計画当日になるまで木之下との連絡手段を電話に限定していた。行方は知らないし、知りたいとも思わなかった。


 榎原に話があると呼び出された十坪ほどの居酒屋は、酔客の騒がしい声が飛び交って、カウンター席の隅に座る二人の会話を掻き消すのに都合が良かった。


 グラスで少量のビールを口に運ぶ木之下の隣で、勢いよくジョッキを傾ける榎原は自分から呼び出したくせに、肝心な話を口にしようともせず、ただ、追加のアルコールばかり増えていくばかりだった。


 木之下は習慣から脂っこい料理を避け、注文していたホッケの干物が運ばれると黙って箸を伸ばす。

 備え付けられていた小型テレビに視線を向けると、惨劇の舞台となった事件現場をバックにマイクを握るリポーターが映し出されていた。


 平日の真っ昼間に都心のど真ん中で繰り広げられた血の抗争は、関克洋が描いた絵図で間違いないと電話越しにがなり立ていた宝来の声を思い出す。


「木之下、本当に関の野郎を殺れるんだろうな!? 失敗は許されねえぞッ」

「いちいち喚くな。それともなにか、今さら怖気づいたのか?」

「ば、馬鹿野郎ッ! 本家の舎弟頭が弾かれたくらいで、この俺様がビビるわきゃねえだろっ。忘れたのか、中国マフィアの溜まり場に単身乗り込んで、三十人からなる荒くれ共の頭を叩き割った話をよ」

「そんなことはどうでもいい。それより、お前の方こそ約束を守るんことだな。以前にも伝えたが、万が一にも瑠奈に手を出そうものなら、俺が消さなくてはならない人間が一人、増えることを忘れるなよ」


 宝来は上手く隠してるつもりなのだろうが、関の報復を恐れていることは誰の目から見てもバレバレだった。


 殺害された被害者の中の一人。轟連合会長、義堂司は大竹組次期組長の椅子を関と争っていたナンバー2だった。幹部のうち、過半数以上は義堂側についていたようで、数で負けていた関が義堂を殺害するだけの動機は十分あるように思える。


 だが――あまりにも拙速な行動ではないか。


 義堂が死んで誰が得をする。いの一番に自分が疑われることくらい、想定できないほど関が愚鈍な人間だとは到底思えない。


 むしろ、自らに向けられる疑惑すら利用して、足場を強固なものにする狡猾ささえ持ち合わせる男だ。


「とにかくだ。いま、義堂殺しを疑われてる奴が火中の栗を拾うとは思えねえ。お前にあらかじめ伝えていた二千万の報酬だが、中国マフィアも殺した上で密航者を横取りすることまで含んでの話だからな。中国マフィアから手を引いた関を殺すだけなら、そう難しい話ではないだろ。報酬はせいぜい三百万ってところだな」


 零れ出る本音。しかし、宝来の言う通り、腕利きの中国マフィアに囲まれた標的を狙うのと、ターゲットが一人になる瞬間を狙うのとでは難易度は天と地ほども開きがあることは確か。


 だが、現実は宝来が予想する形にはならなそうだと木之下の勘は告げている。


「密入国ビジネスが中止になることは、まず有り得ない」

「とうして、そう言い切れる。根拠はなんだ」

「ただの勘だ」


 無計画にジョッキを空け、呂律が怪しくなってきた榎原は「誰にも言うなよ」と、釘を差した上で口を開いた。


組長オヤジは、義堂に関と中国マフィアの関係を密告したんだよ。自分の名を出さないように口約束でもしたんだろうけど、単身のりこんできた関に大層驚いただろうな。その翌日にはあの事件だ……馬鹿な俺でもわかるよ。関が中国マフィアを利用して義堂を消したことくらいな。はっきり言って、組長は関のことも、中国マフィアのことも甘く見ていたとしか思えねえ。その証拠に、俺にも居場所を告げずに雲隠れしているんだぜ?」


 宝来という姑息な人間が、関という本物の修羅を相手に立ち回ろうとしたことが、そもそもの間違いというもの。


 やつがどうなろうが知ったことではないが、瑠奈の身に不測の事態が起こることだけは避けなければならない。


「あと、あんたを呼び出した理由なんだが――」


 歯切れ悪く口にすると、榎原は複数の写真をテーブルの上に置いた。

 手にとって一枚一枚目を通す。全て一人の女性を写したもので、撮った場所はバラバラだった。


 自宅のアパートから出てくる姿。カフェテラスで談笑する姿。交通量の多い歩道を歩く姿。自分が撮影されてることに気がついている様子はなく、隠し撮りされた写真であることは聞かずとも察した。


 写真を手にした指先が震える。全て、親友の一人娘である瑠奈の後をつけて、撮った写真。自分が撮ったものだと、ジョッキをほぼ九十度に傾けて榎原は白状した。


「あんたには悪いと思ってる。でも、組長の命令で仕方なかったんだ。時間があるときは常に瑠奈ちゃんの動向を監視して、もし、あんたがおかしな真似をしたら……その時は身柄を押さえるように言われてたんだよ」

「どうして、いまさら俺に打ち明けたんだ」

「それは……」


 言い淀んでいた榎原の背中に、酔客がふらついてぶつかってきた。舌打ちをして振り返ると、気まずそうに頭を掻いて口を開いた。


「あの子、目が見えてないんだろ?」

「ああ。見ての通り、瑠奈は全盲だ。白杖がなければ外を歩くこともできない」


 福島から東京の大学の進学すると聞いたときは、円堂夫妻以上に気を揉んだ。ただでさえ女性の一人暮らしに否定的だったのに、目の見えない瑠奈が一人暮らしをするなど考えられなかった。


 それとなく本人に諦めるよう伝えたこともあったが、取り付く島もなくさっさと大学進学を決めてしまった。


 ――私、将来は海外で人の役に立つ仕事をしたいの。


 いつか、瑠奈から将来の夢を聞かされたとき、母親に似た意志の強さを感じてしまった。どんな障害が目の前に立ちはだかろうとも、決して心折れずに立ち向かう覚悟は、亡き美久の性格そのものだった。


「あんたが、瑠奈ちゃんを盾にされて組長の依頼を引き受けたとき、最初は他人の子供の為にそこまでするかと不審に思っていた。だけど、当の瑠奈ちゃんに近づいてわかったよ。他人の俺から見ても、あんたにそっくりだった。父親である円堂って男より、よっぽどな。あんたがそこまでして守りたい理由は――」

「変な勘違いはするなよ。円堂の奥さんと俺の間に、男女の関係は一切ないからな。お前が言う通り、確かに瑠奈は俺の血を受け継いでいる。だが、母親は別人だ」


 しばらく黙り込んでいた木之下だったが、残ったビールを一息に飲み干すと、二十年以上触れずにいた傷跡かこを語った。


 紛争地で国境なき医師団に所属していた美久と出会ったこと。二人の間に産まれた子に瑠奈と名付けたこと。これから訪れる未来を、二人で思い描いた矢先に空爆に巻き込まれたこと。


 そして――奇跡に生き残ったのが自分と、永遠に光を失った瑠奈だけだったことを、未だに痛みを訴える胸を押さえながら説明した。


「俺に、子供を育てる資格などない。そう結論付けた俺は、信頼できる円堂を頼って来日した。自分勝手も甚だしいが、子宝に恵まれなかった円堂夫妻に頭を下げて頼み込んで、瑠奈を引き取ってもらったんだよ」


 しかし、神は許さなかった。自らの行いが巡り巡って瑠奈の身に災いとなって降りかかる。本来であれば、円堂に預けて姿を消すべきだった。


 美久を失って学んだはずなのに、瑠奈が成長する姿を傍で見ていたいだなんて臨んでしまった。あまりにも都合が良すぎた。


「最終オーダーだけど、なにか頼むかい」


 カウンター越しに店主から声をかけられ、意識を取り戻す。気がつくと時計の針は日付を跨いでいた。あれほど喧しかった客の姿も見当たらず、空席が目立つ。


 今度こそ、瑠奈を救ったら目の前から消えてしまおう――。無言で椅子から立ち上がり、テーブルの上に紙幣を置いて店をあとにした。




 

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