第38話
遅れること三十分、モニターの液晶画面に映っていたのはスキンヘッドの巨漢、三枝。草薙の体は巨体に遮られて窺えなかった。
無言でオートロックを解除する。踵を返して再びソファに腰を下ろし、窮屈なネクタイを緩めると玄関の扉が開く音に続いて関が待っている部屋のドアがノックされた。
「大変遅くなってしまい、申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げる三枝の後とは対称的に、当の草薙は悪びれもせずに軽く会釈をするだけだった。
膝頭が露出するほどのダメージ加工がなされたデニム、ブラックのダウンジャケット、シンプルなTシャツの胸元にさりげないシルバーのペンダント。渋谷あたりで見かける若者と何ら変わらないファッシャンの青年に、三枝の顔には困惑の色が浮かんでいた。
「お久しぶりですね。少し見ない間に、少し老けましたか?」
「なっ、
信じられないといった様子で激昂する三枝を宥める。
「構わない。そいつに礼儀作法を守らせるつもりもないしな。それより二人共さっさと座ってくれ」
のらりくらりとした対応、人懐っこい笑顔、溢れる白い歯――プロの殺し屋どころか、虫一匹も殺せそうにない青年にしか見えない草薙は、ダウンジャケットを脱ぐと子供のように勢いよくソファに腰を下ろし開口一番訊ねてきた。
「あの、煙草貰ってもいいですか? 職場に忘れてきちゃって、我慢してたんですよ」
「好きにしろ」
許可すると同時に、テーブル上のパッケージに手を伸ばす。
「お前には常識ってもんがねえのか?」
昔気質のヤクザを地で行く三枝にとって、一見優男然とした草薙のようなタイプの男は最も毛嫌いする相手だ。だが、少し観察をすれば、只者ではないことに気がつくはず。
関の煙草のパッケージに伸ばした上腕に走る無数の刀傷の存在に。Tシャツの袖から覗いている傷跡を三枝は見落としていた。まさか、草薙が己とは比較にならない修羅場を潜り抜けてきた猛者だとは夢にも思わないだろう。
「調子に乗って、すみませんでした」
「ちっ、分かればいいんだよ」
怒りさえ霧散してしまう素直な謝罪に、ぶつける言葉をなくした三枝はそっぽを向くしかできなかった。純粋でありながら、笑顔で他人を殺す。
自らの腕を過信せず、ただひたすら殺人技術の向上に努める草薙の戦闘力は、一流の域に達していることに異論はない。ただ、クラブで遭遇した異国の血が流れるあの男も同様に、未知数の実力を備えているように思えてならなかった。
不穏分子ではあるものの、今すぐ排除しなければならない障害物ではないと自分に言い聞かせて、打ち合わせを始める。
「――わかりました。とにかく工場跡地から、一人の中国人マフィアも生きて返さなければいいんですよね?」
「あのな、まだ
とにかく草薙のすることなすことが気に入らない三枝の問いかけに、にっこりと微笑んで返す。
「いいんですよ。事前に敵をイメージしてしまうと、思わぬ痛手を被ることがありますから。なにより、僕達は狙う側の立場ですしね」
飄々とした態度を崩さず、事もなげに口にする草薙。
「では打ち合わせはこれで終わりだ。今夜は、もういいぞ」
関は、草薙の瞳をみつめて頷いた。あくまで自然に頷き返す草薙。
デニムのポケットから取り出した無色透明の糸――ピアノ線の先に
陽気さと人懐っこさが影を潜め、周囲の空気と同調するように存在が希薄に感じられた。殺しの瞬間まで自然体を崩さない姿勢に、先程脳裏をよぎった不安は杞憂だったと確信する。
何かを悟ったのか、三枝の表情が強張って首を横に向けた瞬間――。
「ごめんなさい。命令なんです」
言葉ほど申し訳無さを感じていない草薙は、軽快な動きでソファの背もたれを飛び越えると、三枝の背後に回り込んで太い首に素早くピアノ線を巻き付けた。
百キロを超える巨体をものともせず、必死に抗う丸太のような両腕を躱しながら、自身の体重をかける。足をバタつかせ、呻き声をあげ、泡を吹いて身悶える。
迫り出した左右の眼球は、ピンポン玉のように眼窩からはみ出していた。
激しくなる痙攣が、一転して落ち着きを取り戻しても、草薙の手が緩むことはなかった。
「もう少しだけ、待ってください。いまは気を失っただけですから」
淡々とした口調で話しかける草薙。完全に心肺が停止した三枝の体から、糞尿の臭いが漏れ出した。
――あと、
定期報告のついでに、時東から告げられた会話。沈鬱な声色が蘇る。
――三枝のアニキがボヤいてました。もう、
「流石に百キロを超えるんで、一人で運ぶのは無理です。車とメンバーを集めて処理しますね」
息も切らさず、ピアノ線をポケットにしまいながら話しかけてくる草薙の前に、足をフローリングに投げ出して事切れている三枝の死体。
絞殺に糞尿の垂れ流しはつきものだが、銃殺で肉片をばら撒かれるよりかはマシだった。踵を返して部屋を後にする草薙の背中に、万が一の失敗も起こらないことを悟る。
かりにも、レスラー崩れの三枝を抵抗する間も与えずに絞殺した手際の良さ――自分が血も涙もない悪魔だとしたら、草薙は天使の顔を持つ悪魔。
同じ修羅を生きる者の残り香から、蛋白質の塊と成り果てた三枝に視線を戻す。
長年、片腕として身を粉にして尽くしてきた男。黙って従っていれば、自分の跡を継ぐはずだった男。
後悔も罪悪感もない。あるのは警告を無視した愚か者に対する蔑みだけ。
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