第37話

 関はとあるワンルームマンションの一室で草薙が訪れる時を待っていた。室内の中央にテーブルが一つ、挟むように置かれた革張りのソファ、単身者用の2ドアの冷蔵庫、そして小型テレビが備わっているだけのシンプルな空間。


 ベッドはないし、必要もない。

 この一室は居住用に借りてるわけではなく、他人に聞かれたくない話や、他人に見られたくない相手と落ち合う際に使用する場所と決めている。


 本家の幹部はもちろん、上海の連中も、三枝と時東以外の組関係者も、このワンルームマンションの存在を知ることはない。

 

 今日、この部屋を使う目的は唯一つ――間近に迫っている上海マフィア殲滅と、密入国ビジネスで動く五億円の奪取を含めた打ち合わせ。それともう一つ――。


 時東には宝来の動きを逐次報告させている。鼠の行動を虎が気にかけることなど本来であれば有りえないのだが、こと姑息という一点では誰よりも優れているヤツのことなので、計画を前に不審な動きを取ってもおかしくないと踏んでいたが定期報告では特に変わった動きはなかった。


 強いて言えば、取り巻きのガキが頻繁に宝来の元へ出向いているくらいで、関の嗅覚に反応を示す情報ではない。あの、謎の男の動向も気になるところだが、それよりも関の思考を占領していたのは、時東が電話越しに告げたあの一言。


 ――あと、組長オヤジの耳に入れておきたいことがありまして……。


 言い淀む時東の言葉の続きを、関は特に驚きもせずに聞いていた。ただ、厄介事が増えた煩わしさがあるだけで瞼を閉じて電話を切った。


        ✽✽✽


 手首のオーデマ・ピゲに視線を落とす。約束の時間から、既に十分は遅れている。三枝には、ワンルームマンションの住所を知らない草薙を連れてくるよう命じていたが、どこかの間抜けが起こした事故のせいで到着が遅れると、言い訳がましい釈明の連絡を聞いていた。


 三枝は草薙の顔を知らないが、草薙は三枝の顔を知っている。三枝だけではない、関に近しい大竹組関係者や、敵対組織の組員の顔や名前、家族構成に本籍地まで頭に叩き込んでいる。


 堅気の世界に身を置く草薙には、いついかなる時でも迅速に、そして証拠を残すことなく動けるよう命じている。ひとたび処分を命じれば、哀れな標的に逃げ場などない。


 パッケージから煙草を一本取り出し、穂先に火を灯す。ゆっくり息を吸い、これから殺すべき人間の死に顔を思い浮かべた。処分の対象――それは絶対的な腕を持つ草薙であっても対象外にはならない。


 天才的な技術は買っても、リスクとリターンを考慮して切り捨てる時だと判断すれば、そのときはさっさと切り捨てるだけ。

 非情、冷酷、どれだけ罵られようが構わない。最後に立っているものが勝者なのだから。


 既に煙草の吸殻で山となりつつある灰皿に、灰を落とすと懐のスマホから着信音が鳴り響いた。相手は李、電話に出るといつもより明るい声が耳朶に届く。


「朋友。いま、お電話大丈夫ですか?」

「これはこれは、李先生。私の方からご連絡を差し上げなければと思っていたのですが、なにぶんバタバタとしていまして、申し訳ありません」

「構いません。関先生が微妙な立場にいらっしゃるのはわかっています。それより、配下の仕事には満足して頂けたでしょうか?」


 答えはわかり切っているはずだろうに、李の媚びるような確認に関は珍しく本音を伝える。


「想像以上でした。見事なものです」


 そうでしょう、と嬉しそうな笑い声が響く。確かに、あの非道極まりない所業は両手を叩いて賛辞すべき仕事ぶりだった。見事の一言に尽きる。


「それで、そちらの方はうまくいきましたか?」

「ええ、勿論です。義堂に全て罪をなすりつけてやりました。ですが疑惑が完全に払拭されたわけではないので、頃合いを見計らって李先生が用意された〝代役ニセモノ〟の屍を幹部に引き渡します。そこまですれば、私に対する疑惑は飲み込むしかありません」


 李に計画を察知されることを危惧していたが、話しぶりを聞くに心配は杞憂に終わりそうであった。李の背後から、王、郭の上機嫌な上海語が聞こえる。

 後顧の憂いもなくなり、あとは密入国者が到着するときを待つだけだと祝杯をあげているに違いない。


 李の失敗――それは、自分のように徹底的に他人を疑いきれなかった点に尽きる。いまや、関にとっての己が義堂以上の障害物だと認識されているとは思ってもいないだろう。


「ことが収まったら、いずれ月桃花で盛大に祝杯をあげましょう。最高のおもてなしを約束します」


 近い将来に訪れる死神の足音に、全く気がつく素振りも見せない李の上機嫌な声を遮って、インターホンが鳴る。


「それは楽しみですね。来客が来たので、これで……」


「ええ。また、こちらから電話します。それでは」


 月桃花での祝杯――李の言葉を反芻する。それは決してかなわない未来。祝杯をあげるのは自分一人、死人は足元でくたばっているのだから。

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