第33話

 生まれてきた赤ん坊は、殺伐としたケビンの人生に光を与えてくれた。

 感情の一切を捨て去り、他人の命を奪って生き延びてきたケビンは、無明の闇が広がる世界に現れた一筋の光明を手繰り寄せ、身分不相応の未来を思い描いていた。


 自分を父親にしてくれた我が子に心から感謝し、これから先の人生を家族に捧げる守るべく、美久との話し合いの末に銃を置く決意をした。


 傭兵として何も成すことが出来なかったことは心残りだったが、それ以上に生きる目的得たケビンは美久の派遣期間が切れると同時に、日本へと旅立つ決意を固めていた。


 紛争とは掛かけ離れた極東の地――美久から四季折々の美しさを誇る郷里の話を何度も聞かされていたため、不安より期待が勝っていた。


 日本へ出発する前日の晩、MSFのスタッフと患者一同によるサプライズの送迎会が催された。長期間に渡って紛争医療に身を捧げていた美久を悪く思う人間はおらず、その夜は皆で笑いあい、別れを惜しんだ。


「おじさん。日本に帰るの?」

「ヤニ、わがまま言わないって約束したでしょ」


 もじもじと俯きながら呟くヤニを、年下のジャスミンが姉のように諫める。


「ケビンさん。どうか日本に行っても三人で幸せになってくださいね」

「ああ、約束する」


 ジャスミンの姉、エレーナとは以前から壁を感じることが多々あったが、美久の出産を機に積極的に育児に関わろうとする彼女と、自然と会話が増えていた。


 幼い頃から妹の面倒を見ていただけあって、育児の知識も技術も自分より遥かに上だった。ケビンと美久が面倒を見きれない時間は、代わりに母親代わりとなって愛情を注いてくれたことは大変感謝している。


 夜も次第に深まり、普段激務に追われて口にしない酒にその場にいた大人は顔を染めていた。いつもなら寝ている時間帯に起きている子供達は、うつらうつらと舟を漕ぎ始めて瞼を閉じている。


「美久、そろそろお開きにしようか」


 ケビンは手作りのベビーベッドの上で眠る我が子を撫でながら、手のひらに伝わる温もりを一生大事にしようと再び決心して美久に声をかけたその時だった――世界に終わりが訪れたのは。


 その日の夜、政府軍が放った数百発のミサイル、榴弾は静寂に染まる市街地に死を携えて飛来した。なんの前触れもなく、天井、壁が吹き飛んだと同時に、ケビンの視界は真っ白に染まった。


 感じたことのない衝撃が全身を襲うと、あまりの痛みに抗うすべもなく崩落した瓦礫の中で、姿の見えない美久と我が子に手を伸ばしながら意識を失った――。


        ✽✽✽


 スモークフィルム越しに鞄を片手に急ぐサラリーマンの群れが流れていく。

 カムフラージュのために用意させたハイエースの後部座席で、関はこれから起こる殺戮ショーの開演をいまかいまかと待ち構えていた。


 車体の側面には、ありふれた零細企業の社名が記されている。傍から見れば街中で見かける路上駐車の一つにしか見えないはず。新宿駅西口からオフィス街に向かう有象無象の顔には、負け犬にお似合いの色濃い疲労が張り付いていた。


 確定した未来――これから繰り広げられる惨劇の場に居合わせなかった幸運を神に感謝することだろう。


 オーデマ・ピゲの文字盤に視線を落とす。午後一時二十分――予定ではそろそろ義堂が乗るベンツが到着するはず。


 轟連合が所有するビルのエントランスを、鼠一匹逃さぬように凝視している助手席の三枝の表情は硬直していた。無理もない、あと十分かそこらで日本ではお目にかかれない地獄絵図が繰り広げられるのだから。しかも、相手は大竹組舎弟頭、轟連合会長の義堂司――木っ端のヤクザにとっては神に等しい地位の男だ。


「中国の不良共、まさか下手をうったりしないでしょうね」


 余程喉が乾燥しているのか、掠れ声で訊ねる三枝は、前方二十メートル離れた位置に停車しているミニバンに視線を向けていた。車内には、王、郭を含めた流氓が七名乗車し待機している。


「心配するな。拳銃も携帯していない護衛が何人いようが、はなから勝負になりはしない」

「そうだといいんですが……」


 かつて栄華を極めた日本中のヤクザは、暴対法が施行されてからは翼をもぎ取られた鳥のように身動きが取れなくなっていた。指定暴力団に特定された組織が抗争でも起こそうものなら、即組事務所が封鎖される。末端の組員が拳銃を携帯していただけで、組織のトップである組長が使用者責任を問われる時代だ。


 義堂は常に枝の組織まで、拳銃の所持、使用禁止を厳しく通達している。当然、極秘の温泉旅行に連れている護衛に、拳銃を携帯させているとは到底思えない。

 仮に、持っていたら持っていたで、よりスリリングなショーを観劇できるだけなので計画に支障はないが。


 信頼には程遠いが、王と郭の両名の射撃の腕前に嘘偽りはないことくらい、関は十二分に理解していていた。


「そんなに心配だったら、今からでも降りてもらっていいんだぞ。俺はいつものように、お前達を引き止めもしなければ、責めもしない。さあ、好きにしろ」


 パッケージから引き抜いた煙草を咥え、抑揚のない声を紫煙と共に吐き出す。

 その瞬間、運転席の時東と助手席の三枝の肩が、緊張で強ばる。


「じょ、冗談はやめてくださいよ。途中で降りるような真似、するわけないじゃないですか」

「そうですよ。俺も三枝のアニキも、若頭カシラに一生ついていく覚悟ですから」


 背凭れ越しに慌てて否定する二人は知っている。自分の言葉が踏み絵であること。そして、踏み絵を拒否した場合に消されるのは己であることを。


 言葉の通り、踏み絵を拒否しても引き止めもしなければ、責めもしない。ただ、殺すだけ――例え何十年に渡って忠誠心を捧げようとも、自分の前では価値はゼロに等しい。


 今更袂を分かつには、三枝も時東も深くを知りすぎた。

 

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