第32話

 戦局は一進一退を繰り返していた。大戦以降の紛争では稀にみる数の犠牲者が、集団墓地という名ばかりの埋葬で冷たい土中に祈りも捧げられず埋められていく。


 街の空き地という空き地は至るところに墓標が立つ有様で、それも叶わない亡骸は順番を待つ他になかった。


 国連加盟国もようやく重い腰をあげて本格的な軍事介入の議論を始めた頃、戦線へと復帰していたケビンは、政府軍の兵士の質が明らかに低下していたことに気がついた。


 ここに来て訓練もろくに受けていない予備役の姿が目立つようになり、なかには戦場とは無縁な体躯の、銃よりペンがよく似合いそうな線の細い青年も多く見受けられる。


 膠着した戦局に焦れた政府軍幹部は、国連の介入が採択される前に攻勢に打って出ようという腹積りらしい。連日、使い捨ての消耗品を投じる感覚で人員が送り込まれていた。


 何人もの未来ある若者の命を指先一つで刈り取りながら、数日前に喧嘩別れした親友の面影が脳裏をよぎる。


 ――もう、人殺しには疲れた。

 ――なんだって?


 悪い予感が的中してしまったと、ケビンは心の何処かで諦めに似た感情を抱きながら、傭兵を辞めると告げた円堂に理由を問い質した。


 一時帰国していた日本から戻ってきた円堂は、戦線に復帰したものの以前の活躍ぶりが嘘のように精彩を欠いてばかりいた。


 敵に銃口を向けると引鉄にかけた指が拒絶反応を示すかのように震えてしまうと訴え、傭兵としては使い物にならなくなったと自分の手を見つめながら自嘲した。


 ――命は、簡単に奪っていい代物ではない。そんな小学生でも理解している倫理を、俺達は正義を盾に見て見ぬふりをしていただけにすぎないんだ。

 ――世の中は綺麗事では回らない。誰かが手を汚さないと救われない命もあるんだよ。

 ――俺は、もう銃を握らない。二度とな。


 お前の覚悟はその程度だったのかと散々罵倒した。円堂は一切の反論もせずに受け入れ、その日を最後に姿を消した。

 吐いた唾は全て自分に降りかかることを承知の上で、それでも罵詈雑言を履かずにいられない自分が歯痒かった。


 実は、円堂に生じていた異変をケビン自身も感じていた。まさに語っていた症状と一緒、これまで何百何千と機械的に引いてきた引鉄に、人差し指に、重さを感じることが多くなっていた。


 余計な感情を戦場に持ち込んではいけない――そうやって自らを律してきたルールは、木之下に抱いてしまった恋心を自覚した時点で、破綻していたことを自覚した。


 派遣期間の任期満了を迎えて一時帰国していた木之下が、再び戻ってくるまでの数カ月間、彼女を想わなかった日は一日たりともなかった。


 例え、標的に十字線を重ね合わせる瞬間であっても、頭の片隅にはぼんやりと浮かんでいた。再会をきっかけに止まっていた時計の針は動き始め、はじめの頃は犬猿の仲だった二人の仲は、急速に深まっていく。


 男女の関係に発展するまで、そう時間はかからなかったと思う。


 他人の命を奪う者が、人並みの幸せを思い描いてはいけない。美久と呼ぶことに気恥ずかしさも感じなくなり、心音を共有するように抱きしめながら何度柔らかな体をふりほどこうとしたことか――。


 頭では理解していても、心が彼女を求めてしまう。彼女もまた、自分を求めて愛してやまなかった。ようやく欠けていた部品パーツが揃ったような気さえした。


 そんな日常の中で、例年より早く振り始めた雪が、瓦礫の山を覆い隠すように白く街を染め始めた頃、木之下の口から飛び出た言葉にケビンは耳を疑った。


「私、お母さんになったみたい」

「……なんだって?」


 唐突な告白に、返す言葉が見つからないでいたケビンの手を取った木之下は、自らの腹部に押し当てて優しく囁く。


「まだ鼓動は聞こえないけど、ここに新しい命が宿っているのよ」

「このお腹の中に、俺の子がいるのか……」


 信じられないと呟くと、怒ったふりをして語尾を荒げる。


「他に誰がいるっていうの。正真正銘、あなたの子供よ」


 当時、妊娠検査薬は底をついていた状態で、その検査薬も専ら望まぬ妊娠に苦しんでいる患者に使用されていた。ケビンの知識にはなかったが、妊娠したからといって誰しもが悪阻つわりに悩まされるというわけではなく、割合としては少ないが一度も悪阻が起こらない妊婦もいるらしい。


 美久はその少数に当てはまったため、本人も気がつくのに時間がかかったと話していた。


 美久の爆弾発言に、MSFのスタッフは心から喜ぶと同時に今後の対応に手をこまねいた。まさか赴任先で妊娠をするなど、前代未聞の話だとスタッフが口にするのも無理はなかった。


 常識的に考えれば、例え赴任途中であっても不測の事態に対応できるよう帰国するのがベストであることは、誰しも共有していた答えである。万全の医療体制のもと、無事出産を迎えるまで安静にするべきであると、皆口々に美久を諭そうと試みた。


 危険な紛争医療に携わらずとも事務員としてサポートする道も残されていると、何度も根気強く伝えては拒絶される。最後まで本人は頑として首を縦に振ることはなかった。


「こっちで仕事をしながら出産するって決めたの。お母さんであると同時に、私は紛争医療の最前線で携わり続けるつもりだから。妊娠したから帰りますなんて、中途半端な覚悟でやって来てないわよ」


 結局、美久は宣言通りに紛争医療に携わり続けた。幸いにも木之下の意志を尊重する産婦人科医が病院に常駐していたため、万全とは言えない環境でありながらも臨月を迎えるまで母子ともに異変は見られなかった。


 そして、ついにその日はやってきた。


「ケビン、あなたの子供よ……」


 難産を乗り越え、ベッドの上で弱々しく微笑んでいた木之下は、白い布に包まれた我が子をケビンに抱かせてくれた。


 繊細な陶器を預かるように、そっと受け取る。腕の中に収まる小さな体は、その華奢な見た目から想像できないほどの命の重さを内包していた。


 寝息をたてて眠っている無垢な寝顔は、これまで自分が理想のために戦場で奪ってきた命の価値を、改めて突きつける残酷な鏡のよう。


「よく頑張ったな……。本当にありがとう」


 頷くのも精一杯といった具合で微笑む美久、その手を取って握った瞬間、この幸せを守りたい――ケビンは心のなかで、密かに願ってしまった。

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