第30話
亡き家族を追って、屋上から飛び降りようとしたヤニを救ってから病院内のスタッフと患者のケビンを見る目が変わった。
それまで一定の距離を取っていた同室の患者は、垣根を乗り越えて親しげに話しかけてくるようになり、MSFの医療スタッフも顔を合わせると気軽に接してくるようになった。
なかでも大きな変化は子供たちで、一人、二人と、声をかけてくるようになり、いつしかケビンがリハビリがてら歩いていると、後をついてくるまでになっていた。
「おじちゃん。これ、あげる」
「あのな、何度も言ってるが、俺は二十代だぞ。年寄り扱いするな」
前髪を切り揃えているジャスミンが、プラムを差し出してきた。民家を改装して運営されていた病院の中庭には、平時だろうが戦時だろうが関係なく、毎年実をつけているプラムの樹が自生していた。
その樹に木登りが得意な小柄のジャスミンは、せっせと登ってもぎ取る。一日一個、頼んでもいないのに収穫したプラムを受け取るのが、ケビンの日課になっていた。
正直、枝からもぎ取ってきたばかりのプラムは完熟には程遠いうえに固く、口の中に含むと酸味で舌が痺れる。しかし、そんなことはジャスミンに関係なくケビンが美味しいと一言呟くまで、期待して待っていた。
「ありがとう。今日も美味しいな」
そう言うと満足して笑顔で離れていく。なにやら餌付けされている動物のようで複雑な気持ちだが、意味なく避けられるよりかはマシだと受け入れていた。
姉のエレーナは妹に比べて引っ込み思案のようで、未だに会話らしい会話はないが、以前と比べて避けられることはなくなっていた。そして、ヤニはというと相変わらず空を眺める時間は多かった。だが、助けてからベッドを降りる時間が増えていた。思うところがあったのか、心のうちは本人にしかわからないが、痩せ細った脚では何処にも行けないとでもいうように、自らも残された片脚の筋力トレーニングに励むようになっていた。
「なんだ、またここにいたのね」
すっかり定位置になっていた屋上で、一人佇んでいたケビンのもとにやってきた木之下は、隣で手摺に体を預けると素っ気なく口にした。
休憩中の彼女は常に気怠そうな雰囲気を漂わせている。担ぎこまれた急患の血で赤く汚れたシャツの襟元から、ぶら下げた携帯電話を取り出して画面を見つめる――そして溜め息を吐く。それがルーティンだった。
「黙ってないで、なにか言ったらどうなの。前から思ってたけど、貴方って女性にモテないでしょ」
「煩い女だな。そっちこそ、男から煙たがれる存在なんじゃないのか。そもそも好いてくれるような男がいるとも思えないが」
顔を合わせる度に何かと喧嘩腰になるのは、日常の光景になりつつあった。周囲の人間も、はじめの頃のように気にかけることもなく――ああ、また今日もやりあってるな。その程度の認識だったに違いない。
今日も売り文句に買い文句とはこのことで、つい大人気なく反論すると鼻を鳴らしてそっぽを向き、口を尖らせる。
「失礼ね、彼氏くらいいるわよ」
「なら、どうして携帯を眺めては溜め息なんて吐いてるんだ」
「なに、そんなことろまで見られてたの? まあいいか、減るもんじゃないし」
呟くと禁煙しているタバコのかわりのチューインガムを取り出して、ケビンにも勧めてきた。受け取って口に放り込む。
「こんな仕事してれば当然だけど、日本にも全然帰れないし、心配ばかりかけていて、たまに電話をすれば喧嘩ばかりなの。最近はメールの返信も途絶えていて、宙ぶらりんな状況なんだよね」
もう見限られたのかも、力なく笑う横顔を見た瞬間、胸の奥で感じたことのないモヤモヤが渦巻いていく感覚を覚えた。
――まさか、俺は嫉妬でもしてるのか?
これまで女性と親密になったこともなければ、好意を抱いたこともなかった。
円堂には、せっかくの外見も台無しだと何度もからかわれてはいたが、余計な感情は戦地で足枷にしかならないことをケビンは知っていた。
ならば、最初から知らなければそれに越したことはないと気にも留めていなかった。だというのに――木之下に婚約者がいたことを知って、ここまで戸惑っている自分がいることに信じられない。
動揺を見透かされないように平静を装いながら、木之下の話に耳を傾けていた。
「だけど、この仕事を放り出すなんて真似は私に出来ない。天秤で計るのは苦しいけれど、女としての幸せと仕事を選べと言われたら、私は間違いなく仕事を選ぶわ」
潔いというべきか、ケビンに打ち明けた翌日には自分から日本にいる彼氏に、謝罪とともに別れを告げたという。返事が返ってくることはなかったが、晴れ晴れした顔に後悔は感じ取れなかった。
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