第28話

 民家を改装した病院の窓は、決められた時間のみ開け放つことを許されていた。その窓から外を眺めていたヤニの視線の先には、途切れ途切れの曇が風に流され、鳥の群れが目的地を目指し飛翔していた。

 

 ヤニの年齢は十二歳、親も兄妹も目の前で政府軍による空爆で亡くし、自身も地雷を踏み抜いて右脚を太腿の付け根から失ったのだと、国境なき医師団MSFの職員の一人が沈痛な面持ちで語っていた。


「おい、ヤニ」


 ケビンの声掛けにも反応を見せない。MSFの職員と患者から、『ミク』と親しげに呼ばれる木之下に「許可なくヤニに話しかけるな」と厳命されていたが、話しかけたところで返事が返ってくることはない。


 この病院に担ぎ込まれたのが一月前――それから最低限の会話以外は、ずっと上の空だという。血、肉片、脳みそ、臓物が吹き飛ぶ戦場では、肉体的にも精神的に鍛え上げられた屈強な兵士ですら、人間が瞬きの瞬間に肉塊へと変貌する環境に身を置き続けると、鬱と似た症状を引き起こすこともある。


 例え無事に戦地から引き揚げてきたとしても、平和な暮らしの中で脳裏をよぎるフラッシュバックに悩まされ続け、耐えきれなくなって自ら命を断つ者も多く存在した。


 ケビンも始めての戦場で人間を射殺した夜は、激しい罪悪感で居た堪れなかった。が、それも場数を踏むごとに慣れていき、狼と呼ばれるまでに傭兵として成長を遂げると無心で引金を引けるまでに至った。

 その代償に、人間として大事な何かを犠牲にしてきて、これまで生き長らえてきたともいえる。


「いつまでも死人を想ったところで、神が願いを聞き入れるわけないんだぞ」


 やはり、返答はない。日がな一日ベッドの上で根を張り、天国に旅立った家族を探すかのように空を見上げ続けるヤニもまた自分が救えなかった世界の一部だと、手にかけてきた亡者達の嘲笑が聴こえた。


 なにも変えられない自分に、なにも変わらない世界に苛立ちを覚えたケビンは、不自由な足を庇いながら立ち上がった。何をする気だと、同室で入院していた患者の注目が集まる。


 百八十センチを超えるケビンが、横に立っても振り返りもしない小さな体は十二歳にしては随分と痩せこけていた。一ヶ月間もベッドから動かなければ無理もない。骨から肉は削げ落ち、間近で見ると腕の悪い職人が作り上げた模型フィギュアのようで、生気などまるで感じなかった。

 生きているというより、生かされているといったほうがしっくりくる。


「おい、なにか言ったらどうだ」


 小さな肩に手を乗せ問い質した瞬間だった、ヤニは突然、気が狂ったように金切り声をあげると枕で頭を隠し、耳をつんざく大声で泣き叫び始めた。


 あまりの豹変ぶりに、いかなる戦地でも冷静を保ってきた自分ですら気圧されて立ち竦んでいると、病室に木之下と現地人の看護婦が、何事かと雪崩込んできた。


「どうしたの!?」


 事情を簡潔に伝えたのだが、次の瞬間に視界が閃光で真っ白に染まる。何が起きたのか、一拍遅れて停止していた思考を巡らせる。頬が熱を帯びていることに気がついた。木之下の手が振り抜かれたことに気がついた。


「貴方も戦場を経験してるんだからわかるでしょ。この子は心的外傷後ストレス障害PTSDなの。ちょっとした刺激が、過去の映像を鮮明に蘇らせてしまうの。私達スタッフでさえ慎重に接しているというのに、貴方がやってくれたことはね、無神経にもほどがあるのよ」


 木之下の怒声が、脳内でリフレインした。ヤニの容態を考えずに接したことに対して、怒鳴られていたことはわかっている。わかっていたのだが、これまで平和な世界を追い求め続けてきた己の人生を否定されたような気がしてならなかった。


 ――貴方がやってくれたことは、無神経にもほどがあるのよ。


 まるで、自分がしてきたことは災いを招く呼び水とでもいうような物言いに、俺が闘わなかったら一体誰が銃を手にすると言うんだと、知らず知らずのうちに拳を握りしめていた。

 大戦後の平和ボケした日本人に、俺の真似ができるとでも言うのか?


 未だに泣き叫ぶヤニに、木之下は肩を抱いて付き添っていた。視線はこちらに向けず、手のひらで追い払われる始末――。

 ケビンは患者の視線を振り切って、病室をあとにした。


       ✽✽✽


「狼がこんなところで、なに黄昏てんだよ」


 入院から一週間ほど経ったある日のこと。ふらりと現れた円堂は、ベランダで煙草を吸っていたケビンに一本寄越せと強請りながら、隣にやってきて旨そうに紫煙を燻らせながら口を開いた。


「ミクちゃんと口利いてないんだって? スタッフの皆が口々に言ってたぞ。『空気が悪くてかなわない』ってな」

「知ったことか。誰と口を利こうが俺の勝手だろ」


 口をすぼめて輪っかをつくりながら、遠い目で答える。


「あのな、ここには紛争に巻き込まれた市民や、銃を突きつけられてレイプされた被害者もいる。みんな精神的に不安定の極地だ。そこに一人、不機嫌さを隠そうともしない奴がいたら、落ち着いて体を休めることもできやしないと思わないか?」


 クソ真面目に煙草の灰を空き缶の中に落としながら、円堂は遠くを見つめていたケビンに溜め息混じりに話を続けた。


「なかにはさ、お前を追い出せって訴えているスタッフもいるんだよ。だけど、その抗議に反対してる人がいるからこそ、お前がここにいれることを忘れるんじゃねえぞ」


 視線を煙から円堂に移す。

 初耳だった。誰かが自分を庇っているなんて。


「あいにく、この病院に俺の味方はいないはずだがな」

「まあ、向こうも味方とは思ってないだろうがな」


 背後に人の気配がしたので振り返ると、僅かに開けられた扉の隙間から、二人の姉妹が覗き見ていた。


 女性スタッフが器用に編み込んだ三つ編みの姉と、その隣で前髪を額で横一列に切り揃えた妹も姉を真似て、こちらを凝視していた。年齢は、それぞれ高校生と小学生に相当する。


 ケビンと視線が合うなり、任務失敗とばかりに扉を閉じて階下に駆けていく足音が聞こえた。政府軍のならず者達に凌辱された子供は、大柄のケビンに恐怖を感じているのか、一度たりとも向こうから話しかけられたことはない。


 そうでなくても子供に好かれないことは自覚していた。本能で察するのだろう――落としても消えない血の臭いに。


「改めて考えると、彼女を含めたスタッフの人達って凄いよな」

「彼女とは?」


 もう一本寄越せと差し出された手に、仕方なく、なけなしの最後の煙草を手渡して聞き返した。


「ミクさんだよ。自分の命を省みないでさ、紛争地帯で身体張って他人の命を救うなんて、早々できやしねえって」

「まあ、それはそうだが……あの強気なところが気に食わない」


 思った事を素直に吐露すると、突然吹き出して肩を叩かれた。


「同族嫌悪ってやつだな。俺から見れば、ミクちゃんもお前も似た者同士だよ」

「冗談キツイぞ。誰があの女と似てるもんか」


 語気を強めて反論するも、暖簾に腕押しで円堂は煙草を吸い終えると戦地へ戻っていった。

 屋上から姿を消す直前、「忘れていた」と呟いた円堂は、ケビンに向かって唯一の味方の名を告げた。


「言い忘れてたが、お前の肩を持ってくれたのはクミちゃんだならな、それを忘れるなよ」


 閉まる扉を見届けると、ツンケンした女の顔が脳裏に浮かんだ。

 気に入らないのなら追い出せばいいものを――。


「おかしな奴だ」


 少し、ほんの少しだけ軽くなった足で、屋上をあとにした。

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