第26話
関が乗車したベンツがビルの曲がり角の向こうに消えたのを確認した木之下は、エントランスに戻ると到着の遅いエレベーターを待たずに照明が明滅する階段を昇っていった。
脳内で再生される氷の瞳を持つ男、狂気を隠そうともしない立ち居振る舞いは、
例えるなら、人間の皮を被っている修羅。人間なら誰しもが持つはずの感情の一切が窺えなかった。
奴なら、たとえ眼前で幼子が地雷を踏み抜いたとしても、周囲に四散した肉片が降り注ごうとも、きっと表情一つ変えることなく飯を喰らい、糞をして眠りに就くに違いない。そのような感性の持ち主であることを、本人と対峙して初めて痛感させられた。
問題は、関が自分の正体にどこまで気が付いているのか。
今にも寿命を迎えそうな照明が、木之下の思考を暗闇へ暗闇へと誘う。万が一、五億もの大金が動く密入国ビジネスを前に関が宝来の思惑に気づいていたとしたら、わざわざ二人きりになろうとはせずに宝来の排除に動くはず。
獣じみた嗅覚でなにかを嗅ぎ取ったことには違いないが、関が宝来のもとにやってきた目的を聞き出す必要があった。
「あんた、本当にあの関をやれんのかよ」
「やるか、やらないかではない。やるしかないんだ」
踊り場で待ち構えていた榎原に憮然と答える。荒事とは無縁そうな榎原は、真の凶獣を前にすっかり怖気づいたようで、木之下に問い掛ける声は震えていた。
クラブに戻ると、周囲から人気が失せたボックス席で一人、間抜け面で放心している宝来がソファに背中を沈めて視線を宙に泳がせていた。額が赤く
「お、おう、お前ら戻ってたのか。いやよ、関の野郎が、あんましふざけたことばかり抜かすからよ、俺としたことがついキレちまった」
戻ってきた木之下と榎原に気がつくと、弛んだ二重顎を震わせながら背もたれに両腕を回して、取り繕ったような笑みを浮かべた。
「関と、なにを話していた」
「それがよ、近くに寄ったついでに挨拶に来たんだとよ。本家の若頭とはいえ、歌舞伎の狼と恐れられていた俺の全盛期を知っているあいつは、今でも心の中では俺のことを恐れてやがんだ。だからこそ顔色を窺いに来たんだな。ところがよ、次期組長の座に手がかかってるからか知らねえが、俺のことを下に見るような態度を取りやがった。それに、同席していたお前にも興味をもってな、根掘り葉掘りタメ口でしつこく聞いてきた。俺は礼儀には煩くてよ、昔は同じタコ部屋で散々俺に教育された関に、随分と生意気になったじゃねえかって年甲斐もなくキレちまった。黒人のボクサー崩れの男でさえノックダウンにした拳を叩き込んでやると、一発で床を舐めさせたな。
よくもまあ、淀みなく脚色塗れの武勇伝を垂れ流せるものだと、ある意味関心したものの関の真の目的を聞き出すことはかなわなかった。だが、少なくとも関の警戒網に自分の存在が引っ掛かったことは間違いない。そして、宝来が口を割らなかったこともわかった。
仮に恫喝に屈して口を割っていれば、その代償に関から制裁を受けていたであろうことにも。
クラブを離れた木之下は、榎原が運転する車で仮住まいのアパートに向かっていた。
「なあ、あんたって日本に家族とかいねえのかよ」
コートの襟を立てて騒ぐ酔客の群れを、ぼんやりと眺めていた木之下に榎原が前方に視線を向けながら尋ねてきた。
「なんだ、藪から棒に」
「こんな事態に巻き込んじまってさ、悪いとは思ってんだよ。家族がいたりでもしたら迷惑かけちまうだろ」
「そんなことか。安心しろ、
家族。心の中で呟くと、亡くしたはずの心に鋭い痛みが走った。一度は掴みかけた幸せが、手のひらの中で蜃気楼のように掻き消えた記憶が前方に流れるテールランプの中蘇る――。
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