第25話

「お前らは、外で待ってろ」


 三枝と時東に続いて、小僧が早足でその場を離れる。僅かに遅れて正体不明の男も後に続く。醸し出す雰囲気、無駄な音をたてない足の運びない、狼のように冷たい視線、気になることは山程あったが、義堂抹殺を明日に控えて余計な揉め事を引き起こしたくはなかった。


 気配が遠退いていく気配――無意識のうちに強張っていた全身の筋肉が、宝来と二人きりになった途端に一気に弛緩した。この関克洋が臆していたという事実に、生涯抱いたことがない敗北感を感じざるを得なかった。


「本当に久しぶりだな」


 短い時間ではあったが、演じていた柔和な笑顔を捨て去り、本来の凍てつく顔を取り戻すとソファに腰を沈めてテーブルの上に足を投げ出した。

 振動で飲みかけのグラスが倒れると同時に、周囲から取り巻きがいなくなった宝来は肩を、全身を震わせた。


「な、なんだよ、そんなに怖い顔してよ。突然姿を見せるもんだから驚いたぜ。しかし何年振りだろうな、こうして二人して酒を飲み交わすのはよ」


 頼んでもいない焼酎の水割りを作り始めた宝来は、グラスの中にロックアイスを放り込んで安酒と水をマドラーで掻き混ぜながら、醜い愛想笑いを浮かべた。姿を消した頃から何も変わっていない臆病さに殺意が湧き上がる。

 ここで酒でも飲んでしまえば、暴力ほんのうに身を任せて殺しかねない。こんなホラ吹きだけが取り柄のチンケな男を殺して刑務所に入るなど、今や闇社会の中心に君臨しようとしている自分にとって割に合わないにも程がある。


「その手を止めろ」


 有無を言わさぬ命令に、ピタリと掻き混ぜる手が止まる。


「お前のような鼠が、義堂に、なにを吹き込んだのか言ってみろ」

「は? 義堂? 俺がなにを吹き込んだっていうんだ」

「シラを切る気か。ならそれでいい、あの日のように頭をボトルで割られたいのならな」


 その一言で、宝来の顔が赤く染まる。頭の中では当時の記憶が、まざまざと蘇っていることだろう。


 十六歳で二人を刺殺し、少年刑務所で成人を迎えた関は出所後、その〝活躍ぶり〟に目をつけた稲代組から声をかけられていた。

 定職にも就かず、毎日を暇とフラストレーションばかり溜め込んでいた関は、先が見えない人生を歩むくらいであればヤクザに就職するのもありかという軽い気持ちで門を叩いた。同時期に同じ兄貴分の下についていたのが宝来だった。


 短期間ではあったものの、相部屋で下積み時代を過ごしていた日々の中で、宝来という男が口先ばかりの虚勢塗れであることはすぐに判明した。いかに自分が優れているか、関に酒を勧め、自らが語る武勇伝ハッタリに酔いしれながら、お決まりの騒々しいイビキをかいて眠る。

 部屋住みの生活が厳しい規律に守られていなければ、正式に盃をもらう前に関は間違いなく刑務所に入っていた。それだけ癇に障る男だった。


 何を任されても鈍臭くてかなわない宝来は、兄貴分の男に媚びへつらうことで全てにおいて勝る自分より先に、なんとしてでも盃を貰おうと躍起になっていた。が、当然実力では自分の足元にも及ばない宝来が評価されるわけもなく、先に関が盃を貰うことが決定して、兄貴分の部屋に居候することを勧められると恥辱に震えて俯いていた。


 狭っ苦しいだけのタコ部屋から住まいを移すことが決まった日、昼間から夜中まで飲んだくれていた宝来は、黙々と荷物をまとめていた関を恨み嫉みで濁った眼で見据え、呂律の回らない口調で皮肉った。


 ――これはこれは、上手く兄貴に取り入った関じゃねえか。その手練手管を俺にも教えてくれよ。なあ、どうやって兄貴をたらしこんだんだ? なあ、黙ってねえで教えろよ。


 執拗な皮肉も、これから始まる新生活の前には小鳥のさえずり程度にしか聴こえなかった。


 ――無視すんなよ、盃貰うことが決まって、もう俺の話なんか聞く気もなくなったのか? この歌舞伎町の狼にシカト決め込むほど偉くなったのかよ、どうなんだ! オラッ!


 酒の力で気が大きくなった宝来は、手に握っていた酒瓶を関の頭上で逆さにした。

 額から幾筋も流れる液体を一舐めした関は、空になった瓶を奪うと目を見開いて癇癪を起こす頭に全力で叩きつけた。砕け散るガラス片、傷口から吹き出す鮮血、畳の上に力なく仰向けに倒れた宝来は、恐怖に凍てつく顔で関を見上げた。


 ――な、なにすんだっ、俺は、歌舞伎町の狼と呼ばれた、


 ガラ空きの顔面に体重を乗せた前蹴りを食らわすと、言い終わる前に前歯が宙を舞う。


 ――歌舞伎町の狼と呼ばれてたんだろ? なら、さっさとキレたとこを見せてみろよ。それともなんだ? いつもの口からでまかせかよ。いいか、二度と歌舞伎に姿を現すんじゃねえぞっ! 

 ――やめて……やめて、ください……。


 怒りと殺意に身を委ねた関は、挑発的な罵声と蹴りをダンゴムシのように背を丸めた宝来に浴びせ続けた。欠けた前歯から漏れる情けない声が、関の神経を逆撫でるとも知らずに。それにも飽きた頃、足元で這いつくばっていたのは、熟れて地面に落下し潰れた果実のような、顔面を体液まみれにした汚物だった。


 それから部屋をあとにした関の耳に、宝来が稲代組から追い出されたとの風の噂が舞い込んだが興味は微塵もわかなかった。

 それから数年後――歌舞伎町の風林会館前で台湾の流氓に集団で暴行を受けている場面を目撃するまで、記憶から失せていた。


「おいおい、何を言いたいのか知らねえが、俺は本当になにも知らねえぞ」


 短い足を懸命に組んでグラスを口元に運ぶが、手が震えてグラスの中のロックアイスが音をたてていた。


「俺と上海マフィアの関係ついて追求してきた。朝っぱらから組事務所に呼び出して、破門にされたくなければ従順な犬になるよう脅してきやがった」

「破門⁉ 本当にそんなこと言われたのかっ」


 沈めていた背中を起こすと、驚愕の色を浮かべる。演技はそれなりに堂に入っていた。

 煙草を咥え、目の前に転がっていたライターで火を灯す。


「破門話が嘘だとでも? 俺がそんなつまらない冗談を言いに、わざわざお前のもとにやってきたというのか?」

「そうは言ってねえけどよ……。俺が密告したなんて妄想が飛躍し過ぎだぜ」

「いいや、お前ならしかねない。俺にボロ雑巾にされたことを根に持っているのか、それとも台湾の連中に滅多打ちにされたことを根に持ってるのかしらないが、義堂本人に直接問い質したんだよ。お前から話を聞いたとな」


 前のめりになる宝来に顔を近づけ、糸のように吐き出した紫煙を吹きかける。


「ば、馬鹿言うなっ! 俺がそんな真似するわきゃねえだろ! 中国の不良に滅多打ちされたってのも冗談にしてキツすぎるぜ。悪いが俺はその件に関しちゃ、一切無関係だ」

「ふん。まあいい、取り敢えず、その話は置いておこう」


 わかっていた。宝来が事実を認めないことを。認めるということは、即ち自分の非を認め、死に値する行為であることを。地を這う鼠に、これ以上余計な真似はするなと警告することが目的で足を運んだ自分としても、今ここで宝来が素直に認めると話が違ってくる。


「ところで、さっきまでここにいた、あの男は一体誰だ?」

「あいつか? ああ、うちの闇カジノで働いてる従業員だよ。ただ使えないのなんの」

「お前のところにいるプロレスラー並の男より、よほど腕が立ちそうだがな」


 肩を竦めて吐き捨てる宝来の髪を鷲掴みにすると、額に煙草の穂先を押しつけた。


「あっち!」


 肉が焦げる音と情けない悲鳴が響く。


「今日のところは、お前の嘘八百を信じたふりをしてやる。だが、二度目はないぞ。いいか? 鼠が虎の猟場を荒らそうとするな。分不相応に色気づいて俺の周囲を這い回ろうものなら、次は予告なしにお前の額に銃弾をぶち込んでやる。わかったな」


 左右に泳ぐ黒目を見据えて、淡々と伝える。赤く爛れた火傷の跡を撫でて涙ぐむ宝来を足蹴にし、踵を返した。


 誰であろうと、関克洋の覇道を塞ぐものは容赦しない。誰であろうと。

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