第23話

 四方を剥き出しのコンクリートに覆われた地下室、頼りない裸電球が煩わしく明滅を繰り返す二十坪ほどの薄暗い空間に、逃げ場のない湿気とむせ返るほどの血の匂いが立ち込めていた。


 天井から垂れ下がるロープに、屠殺前の豚のように両腕を縛られた愚かな裏切り者の命乞いが反響し、壁にもたれ掛かっていた王はその姿をニヤニヤと笑いながら眺めていた。


 ソファで二十年物の老酒ラオチュウを嗜んでいた関の横で、李が日本語に訳す。


「自分は密告などしていない。〝二人は〟そう話しています」


 李との最終的な打ち合わせ――義堂の抹殺の件について月桃花で話し合いがまとまると、月桃花が入っているビルの地下室に移動した。その地下室は本来、変造パスポートや盗品の売買に使用されているが、その他にも用途がある。


 ――例えば、組織に仇為す者の処刑。


 李は実行不可能なことは絶対に口にしない。裏を返せば、口から出てきた言葉は必ず実行に移されるということ。

 仮眠を取って店に顔を出した関に、涼やかな笑顔で迎えた李は鼠を捕らえたと報告をした。自分との関係を外部に漏洩していた姑息な鼠を、僅か数時間で拘束したことになる。


 くだんの首謀者は、月桃花のフロアマネージャーを長年勤めていたチョウという男。そして共謀関係にあったホステスの一人。李の意向で従業員同士の恋愛は厳禁と定められていたにも関わらず、この二人は三年もの期間、周囲の誰にも男女の関係を悟られないまま過ごしていた。


 それだけであれば、歌舞伎町の闇社会で恐れられる李も目くじらを立てて処罰しようとは思わない。


 問題なのは、月桃花の帳簿を自らの裁量で書き換えたり、上海マフィアのシノギの一部である変造パスポートや盗品を二人で横領し、あろうことか自ら売り捌いていたこと。


 この地下室は普段固く施錠されている。鍵を有しているのは李と店長のみで、店長は現在痛風が悪化して現場を離れている。そして、店長はひた隠しにしていたようだが、李から追求を受けて根負けすると以前二つあった鍵のうち、一つを失くしていたことを白状した。


 鍵の保管場所は店鋪の売上や顧客名簿など、一切合切が管理されている金庫の中。解錠に必要な番号を知る者は本来店長だけだが、李には内緒で少しでも楽をしようと日々の売上の管理を任していた張に秘匿の番号を伝えていたという。高い確率で、店長も後日処刑されるに違いないが、関の知るところではない。


「わ、わたしは彼に唆されただけよッ、だから許して!」

「お、お前って奴はッ、俺のほうこそ、この女狐に騙されたんだ! 李さん、勘弁してください……盗みはしたけど、それ以上のことはしてないんです。俺は無実なんだ、頼むから信じてくれッ!」


 張の顔は関が到着するまでに拷問を受け続けていたようで、同一人物とは思えないほどに腫れ上がっていた。その横の女は顔こそ無事だったが、着用していたチャイナドレスが見るも無惨に裂かれて、乳房も秘部も顕になっている。


 郭が手にしていたナイフを一振りするたびに絶叫が轟く。言葉は通じなくとも、悲鳴は万国共通。


 王が射撃において右に出る者はいないとすれば、郭は銃も刃物も高次元で扱えるオールマイティと言える。射撃こそ王に敵わないが、刃物を使わせれば、どれだけ口の硬い人間でも口を割らせることができる生粋のサディストだった。


 腫れ上がった顔から下、全身にかけて無事な箇所を見つけるのが難しいほどで切り刻まれている。パックリと切り裂かれた無数の傷口から溢れ出る鮮血、一見凄惨な現場にも思えるが、見かけほど傷は深くない。


 身体的に追いこむというより、精神的に追いこむ手法。郭は理解している、致命傷を与えずとも相手の精神を状態を意のままに操る術を。


 李はともかく、王と郭をも敵に回すとなると相応の手練が必要となる。関は甚振って興奮する背中に目をくれながら、いかにして歌舞伎町に寄生する中国のダニどもを駆逐するか計略を巡らせていると、郭が野良犬のように物欲しそうな顔で李に早口で捲し立てた。


 それに表情を変えず、残酷な笑みを浮かべる李はゆっくりと頷く。

 目尻に皺を作って凶悪な笑みを浮かべると、張の足首を捕まえて片方の手に握りしめられていたナイフを右足の指に躊躇なく叩きつけた。


 今日一番の絶叫――血の海に散らばる五本の指、おもむろに振り返ると、表情一つ変えない関とは対称的に同席していた三枝と時東は揃いも揃って、顔から血の気を失くして立ち竦んでいた。


 二人が腰抜けというわけではない。どちらかといえば荒事には滅法強く、そんじょそこらの同業者では太刀打ちできない実力を備えている。


 では何故か――情けがあるかどうかの違い。二人はまだ、情を捨てきれていない。恐らく、何もここまでする必要があるのかと口にはせずとも思っているのかもしれないが、そう考えている時点で二人は本質を理解していない。


 凶獣を相手にするには、自分がそれ以上の凶獣にならなければならないことを。


「郭、早く張を殺させてくれと訴えています。関先生、どうしますか? このままですと足首から先がなくなってしまいます」


 その一言に、女の股から尿が筋を作り、アンモニア臭が地下室に蔓延した。李の視線は、これから始まる舞台に胸を高鳴らせているような、怪しい光を放っている。

 この関克洋が、いかにして裏切り者を消すのかを期待していた。


「わかりました。ゴミはさっさと片付けましょう。日本人は綺麗好きですからね」


 息も絶え絶えな様子の張のもとに歩み寄った関を、狂気に吊り上がった瞳の郭が立ち塞がる。獲物を横取りされたことに苛立ちを見せていた。


「どけ」


 剣呑な視線を無視して張の正面に立った関に、張は地獄で仏にでも遭遇したかのように、一心不乱に喚いていた。残念ながら間違っている。この中で最も命乞いが無駄である自分に訴えたところで、確定した未来が覆ることはない。


 琥珀色の老酒が揺れるグラス片手に、スラックスから引き抜いた左手を横に一閃した。命乞いは途絶え、深々と裂けた咽頭から勢いよく噴出する血飛沫が、隣に立っていた郭の顔を真っ赤に染める。


 関の顔面に付着した血が頬を伝い、グラスの中に滴となって落下した。


 銃の名手だろうが、刃物の使い手だろうが、いざとなればこの手で皆殺しにしてやる。うちに秘めた獣が、張の血を媒介に顔を覗かせる。


 張の血がブレンドされた老酒を、一足早い闇社会制覇の祝杯として一息に呷った。

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