第22話

「ねえ、あなた生まれはどこなの?」

「どこだって構わないだろ。それより、一人にさせてくれないか」


 空気を読まないホステスの問いかけに一切答えず、グラスを傾けていた木之下の正面、ソファに腰掛けていた宝来は不自然なほど巨大な胸をぶら下げた女の谷間を覗き込んでいた。


 頬をだらしなく弛緩させ、抱き寄せた女の嫌がる素振りを演技だと信じて疑わない表情で愉しんでいるようだった。


「そいつ、愛想悪いだろ。女遊びもしたことがないような堅物だからよ、童貞のガキみてえに初のクラブに緊張してんだ。その点、俺は十五の頃から歌舞伎町のクラブを梯子はしごしてるからよ。遊び方の年季が違うってもんだ」

「あら、この前は十六って言ってなかった?」

「バ、バカヤロウッ! 昔のことなんだから勘違いくらいあるだろ! なら聞かせてるよ、あれは俺が十五の頃――」


 思わぬ横槍に狼狽える宝来をよそに、顔より胸のほうが遥かに大きい女が粘着質な視線を投げかけてくる。


「木之下さんって男前ね。陰がある感じ、ワタシ好きよ。今はフリーなの?」


 反射的に目を逸らし、グラスに浮かぶロックアイスを見つめると沈んだ顔の男が見返していた。昔から積極的な女は苦手だった。


 宝来のような虚言ではなく、女性からアプローチされた回数こそ多かったが首を横に振ることがほとんどだった。というのも同世代が恋に遊びにうつつを抜かしている頃、陸軍特殊部隊グリーンベレー出身の父親から、強い男になれと拷問に近いスパルタ訓練を受けさせられていた日常が、女性との付き合い方を学ぶ機会を失わせていたから。


 海外を転々と渡り歩いていると、体の関係に強引に持ち込まれそうになった経験が、両手の指ではとてもじゃないが足りな

い。紛争が恒常化している地域では慢性的に男手が少なく、現地の女性とねんごろな関係になって、その場の勢いで夫婦の契を交わす傭兵を何人見かけた。


 そういった同僚の末路は決まりきっている。これから見ず知らずの誰かの未来を未来永劫奪い去るというのに、自分だけが幸福を享受することなど神が許すはずもない。余計な雑念を戦場に持ち込んだ連中から命を落とすことがほとんどだった。


 人を殺めれば最後――いくら洗い流しても落ちないほどの血で汚れた手で、誰かを抱き竦めることなどできやしないというのに。円堂のようにリタイア後に私生活を謳歌している人間は、珍しい部類に当てはまる。


 木之下は一生涯、特定の女性と関係を深めるつもりはなかった。初めて人の頭蓋を撃ち抜いたときから、その資格は永遠に剥奪されたと覚悟をしていた。だが、自らに課したくさびはいとも容易く綻びが生じてしまう。


 ある女性を心から愛してしまい、神は、誓いを疎かにした人間に耐え難い呪いを授けた――。


 やたらと濃い焼酎に悪酔いでもしたのか、記憶の残滓が疼痛とうつうを伴って脳裏に蘇る。背中に背負い続けている十字架は、木之下に一時の休息も赦しも与えることはない。

 いつか命尽きるその瞬間まで、背負い続けなくてはならない業そのものだった。


「なんだよ、男ぶりってもんを理解してねえ姉ちゃんだな。少し鼻筋が高けりゃ、地蔵だってカッコいいって言うんだろ。なあ、テルもそう思わねえか」

「え? あ、はいっ、そうですね」


 木之下の意識を現実へと引きずり戻す宝来の不貞腐れた声に、いつの間にか滲んでいた額の汗を冷えたおしぼりで拭いながらおもてを上げる。


 少しでも自己肯定感を満たそうと同意を求める宝来に男らしさの欠片など微塵も感じられないのだが、肯定するしかない榎原は煙草を咥えた口許に慌ててライターを差し出して答える。


「姉ちゃんたち。ちっと悪いが、席を外してくんねえか」

「ええ〜木之下さんと、もっとお話したかったのに」


 口を尖らせてテーブルを離れるホステスに、宝来は舌打ちをして肺に溜めた紫煙を吐き出す。侍らせていた女をけさせると、精一杯の虚飾をデコレーションさせた顔で取り繕うように凄んでみせた。


「あんたもしつこいな。当日の相手の出方次第だが、俺にできることは臨機応変に立ち回るだけだ」


 五億もの金を強奪する決行日が近づくにつれ、日増しに落ち着きを失っていく宝来に言われるまでもなく、木之下は現地の下見は済ませてシュミレーションも繰り返し行っていた。


 矛盾しているようだが、いくらプランを練ったとしても事が思い通りにいったことは、かつて戦場で数回程度しか経験していない。だからと言って、シュミレーションを重ねるのとぶっつけ本番とでは、作戦の成功率が天と地ほど離れる。


 一発で対象を仕留めることが必須のスナイパーに求められる資質は、どのような状況に陥っても平常心を保つことに尽きる。その状況における最善手を選択し、迷いなく引鉄を引く者だけが生き残ることができる。


「そうはいってもよ、万が一ってことがあるだろ。この計画には些細なミスすらあっちゃならねえ。関を殺して、ついでに上海の不良共もまとめて消してたうえでマイクロバスを奪うんだ。上海の連中はまだしも、関は必ずだ。生かしておいてロクなことはねえ」

「何度も言わせるな。俺が銃口を向けて仕留めきれなかった人間は、かつて一人たりとも存在しない」

「ふん。自信を持ってるのは構わんが、わかってるだろうな。失敗したら、琉奈ちゃんの命はないと思えよ」


 小心者の恫喝、胃をちりちりと焼いていく怒りに堪えながら、凍てついた視線で宝来を貫いた瞬間に表情が強張る。


「お前こそ、わかってるんだろうな。もし、約束を違えたときは標的が一人増えることを。今更一人殺そうが二人殺そうが、俺には大した違いはない」

「お、お前、俺を脅す気かッ!?」

「事実を言ったまでだ。とにかく、俺は関を確実に殺してやる。お前必ず琉那を開放することだ。わかったな」


 舌打ちをして荒々しく紫煙を吐いた宝来は、わかってると素直に認めた。約束を反故にしなければいいだけの話。


 決行当日の夜空には満月が浮かんでいる。天候次第では深夜でも数十メートル先に立つ輪郭が顕になる可能性もある。言い換えると、相手から自分の姿も認識しやすいということ。ここで最大限気を配らなければならないのは、自らの狙撃地点を悟られないという点――。


 関と手を組む上海マフィアのボスである李は、配下に王と郭という狙撃の名手を従えている。実力の程は知らないが、残虐性は李に次いで群を抜いているという。


 万が一にも居場所を悟られた場合、即座に応戦してくる事態も予想されるため、複数の狙撃地点の確保と速やかに移動するための導線も既に確保してある。


 あとは決行当日まで、粛々と己の刃を研ぎ澄ませるのみ――。グラスに残った焼酎を飲み干したタイミングで、クラブの店長である男が暗がりでも認識できるほどに狼狽した様子で駆けてやってきた。


「なんだ? そんなに慌てて」

「それが……お止めしたのですが」


 店長が申し訳なそうに頭を下げるのと同じタイミングで、背後から感じたことのない類の殺気が木之下の首筋に刺さった。

 ゆっくりと後方に視線を巡らせる。


「な、なにか用ですか」

「てめえに用があるんじゃねえよッ」


 震える榎原の声を掻き消す怒声。目測で二メートル級の大男を従えていた男は、質問に答えることなく歩みを進める。

 うせろ、と店主を押しのける小柄な若者を無視して靴底を鳴らす男――見るもの全てを切り裂くような、危険な狂気の色を孕んだ両眼がソファの上で膝を震わせている宝来の横で立ち止まった。


 ただ立っているように見えて隙のない構え、背筋に緊張が走る底冷えする瞳、体内に流れる血液が凍りつく能面、初めて目にした関は、宝来が嫉妬をしていいような相手ではなかった。まるで役者が違う。


 一秒が一時間にも感じる静寂の合間に、関が自分の存在に気が付いて視線が交錯した。口内から水分が干上がる。逆立つ毛。逸らすことのできない瞳。その瞬間に悟った。


 関克洋という男が、戦場とは異なる修羅場を相当数掻い潜ってきたことを。

 氷の瞳は木之下を一瞥すると、視線を逸らして再び宝来に意識を傾けた。


 時間にして僅か数秒向かい合っていただけで、木之下の心拍数は跳ね上がっていた。戦場でも感じたことのない緊張プレッシャーから開放されると、全身にどっと疲労感が押し寄せる。


「お久しぶりですね、宝来さん」

「お、おう。どうしたんだ、突然やってきたりして」


 慇懃いんぎんに頭を下げた関に、普段なら鷹揚な態度をみせる宝来の余裕ぶった笑みは失敗に終わる。黒目はしきりに泳ぎ、口許は小刻みに痙攣していた。


「少し、お時間を頂けますか? お話したいことがありまして」


 口調こそ穏やかだったが、有無を言わさぬ威圧感が込められていることは、虎に睨まれていたチンケな鼠にも伝わっていたことだろう。


「あ、ああ、そういうことなら、断るほど器の小せえ男じゃねえぜ。お前ら、席を外せや」


 スーツのポケットの中で震える手を必死に隠しながら、退室を促する宝来の一声に木之下、榎原、そして関の護衛の二人はソファを離れた。


 それまで忘れていたかのように、騒々しいクラブミュージックが鼓膜に雪崩込んできた。脳内には、このタイミングで関が現れた目的の疑問符が飛び交う。


 いずれにしても、標的である関と計画前に接触したのは大きな誤算だった。

 


 




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