第三章
第20話
三十畳ほどのリビング、その中央に置かれたテーブルを囲うU字型のソファ、遮光カーテン、テーブルに置かれたアロマキャンドル、部屋はピンク色で溢れかえっていた。
榎原の運転で赴いた大久保のマンションの一室――ここが宝来の
微かに香る残り香は女物の香水。宝来曰く、〝自称〟愛人の一人であるクラブのママの自宅にわざわざ呼び出した理由――万が一にも外部に情報を漏らしたくないから。
その証拠に家主の女には席を外させている。先程玄関から出ていった女の吊り上がった目が、二人の関係性を雄弁に物語っていた。宝来の背後に立つ榎原は、決められた動作で咥えられた煙草の穂先に火を灯す。
「関の野郎が、上海マフィアと手を組んでることは話したよな」
黙って頷くと、榎原が置いた二人分のワイングラスに家主の許可もなく、一本十数万円はくだらないワインをなみなみと注ぎ入れる。
味の違いもわからないくせに、一口飲むたびに博識を披露しつつほろ酔いになりながら本題へと入った。
「近々、過去最大規模の密航者の受け入れを、関は計画立てている。このシノギをなんとしてでも成功させたいはずなんだ。なんてったって、軽く見積もっても五億もの金が動くシノギだからな。ここだけの話、大竹組組長の佐々川徹心が大病を患っちまって、そう長くはないらしい。今は辛うじて生きながらえちゃいるが、水面下では既に次期組長の座を巡って、莫大な金やら利権やらが相当動いている。本来跡目は舎弟頭の義堂という男が襲名するのが自然な流れなんだが、金の力で割り込んできたのが関だ。幹部連中を自らの派閥に寝返らせるために、あれやこれやと画策している。当然、関がなんの準備もしていないはずがない。なにが言いたいか、わかるか?」
「今回のビジネスは、万が一にも失敗は許されないわけですね」
木之下より早く、榎原が答える。
「そういうことだ。出迎え蛇頭の関は必ず現場に立ち会う。そんでもって、李に密航者を受け渡す場所として最適な場所はそう多くない。なんせ密航者の数は三桁を超えるからな。それに一時的に匿う場所も必要となる。コンテナや倉庫は当局の監視の目が厳しいから、アパートやマンションを丸々一棟借りる必要があるわけだが、ウチの息がかかっている不動産業者に沼田商事が管理している物件におかしな動きがあれば、すぐに連絡するよう伝えてある。沼田商事ってのは、大竹組の二次団体である稲代組のフロント企業だ。奴等はここに、鼻も曲がる臭気を放つ密航者を匿うつもりに違いない」
そう告げると、宝来はテーブル上に散らばっていた酒のつまみを手で避けて、拡大した住宅地図を広げた。指先で赤く燃える火種を、ある一点に押し当てると口角を上げ、気色悪い笑みを浮かべる。
「そこはな、沼田商事が管理している築三十年以上は経つアパートが建っている。来年の二月には取り壊しが予定されていて、現在住民は誰一人として住んでいない。お
宝来が指を移動させ、地図上で一センチにも満たない距離に建つ工場を指差す。背後は東京湾、周囲には広大な敷地の公園や水処理センターがあるだけで、宝来の言う通り、夜間に人の往来があるとは思えなかった。
「上海マフィアのボスである李は、蛇頭の元締めと関の仲介役を担っているだけで実質何もしないみたいだが、必ず密航者の人数に過不足がないか現場に確認をしに訪れる。いくら人目につかない立地と言っても、古びたアパートの前に何台ものマイクロバスが停車すれば、要らぬ詮索をされることだって考えられる。そこで怪しまれない駐車スペースが必要となるわけだ」
「まさか、マイクロバスごと奪おうと言うわけか」
ようやく宝来の目論見に思い至った。あれこれ大義名分を掲げてはいたが、自らの手を汚すことなく、密入国ビジネスで動く五億もの大金を奪い取る算段をつけていたのだ。
確かに密航者を奪うには、マイクロバスごと奪うのが手っ取り早い。どうりで二千万もの報酬をぶら下げるわけだと、冷ややかな目を向ける。
意外だったのは、宝来の執念深さに比例した計画の抜け目なさ、周到さである。木之下の知っている宝来のイメージは、小心者で、肝っ玉も小さく、虚飾に塗れた取るに足らない溝鼠そのものだった。
そのイメージが間違っていた訳ではないが、少なくとも己の実力というものを理解した上で策を弄する程度の頭脳を持ち合わせていた。
「計画を成功させるために必要なものがあれば、早めに言ってくれ。だがな、この俺様がここまでお膳立てしてやってんだ。失敗したなんて冗談は通じないからな」
淀んだ両眼が木之下を睨めつける。
「わかっている。任せろとは言わないが、これまで与えられた任務を失敗したことはない」
初めてグラスに口をつけ、瞼を閉じた木之下は深い闇へと意識を沈下させていく。
果たして、今回こそ死神の足音を聞くことになるだろうか。同僚の多くは死に魅入られ、既にこの世を去って久しい。皆、木之下を置いて異国の地で
関に個人的な恨みはないが、大切な人の命を守るためには
あまりにも陳腐な正義を貫く代償として、今もなお聴こえる亡者の怨嗟は木之下に赦しを与えることはない。
両手を血に塗れさせながら、戦地を駆け巡った過去から今に続く負の連鎖を、精算するときが刻一刻と近づいている。
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