第19話

 義堂と別れたのち、その日一日のスケジュールを変更して自宅のタワーマンションに戻った関は、眼下に新宿の雑踏を望む一枚ガラスの前で李に一報を入れた。


 まだ床の中で惰眠を貪っている時間帯と知りつつ掛けた電話に、当然李の反応は芳しくない。それも想定のうち、これが日常的な業務連絡とは異なる性質のものであることを、言わずとも李の硬い声が示していた。


「大変なことになりました」

「どうしましたか? 朋友バンユ?」


 悲壮感を湛えた声色、憔悴しきった役を演じるのは、さして難しいことではなかった。今まで何人もの人間が、関の手で地獄に叩き落される瞬間を目撃してきたから。


 いつもは柔和な李の返事が、そのときばかりは硬化し張り詰めた空気を放っていた。大変なこと――二十年間で、関がただの一度たりとも口にしたことがないフレーズに、来月に迫る五億の金が動く密入国ビジネスに支障をきたす類の問題かどうか、神経を尖らせていることだろう。


 もし万が一――自分が原因で蛇頭のシノギが警察によって丸潰れにでもされれば、即ち香港マフィアと関の仲介役を担っている李自身の責任問題にまで発展しかねない。そうなれば、二十年間の友好関係を塵芥のように破棄しようとしている自分と同様に、片腕である射撃の名人の王と郭を引き連れて、その日のうちに命を奪いに来ることだろう。


「今朝、ウチの舎弟頭の義堂に呼び出されたんですが……」

「それが、なにか? ヤクザは理不尽な上下関係が罷り通ってるのは、今に始まったことではないでしょう?」

「それは、そのとおりです。ですが、内容が内容でしたので、早急に伝える必要があると思いまして……」

「関先生。単刀直入に仰ってください。相談なら乗りますよ?」


 言葉の節々に疲労感を滲ませ、李の助言に従って切り出した。


「実は、私と李先生の関係が義堂の耳に入ってしまったのです」

「なんですって? それは、本当ですか? 一体何処から」

「ウチの末端の人間クズが密告したようですが、到底自分で得た情報だとは思えません。恐らくは……」


 関の言外に秘めた言葉に、電話口の向こうに沈黙が漂う、容易に思い浮かぶ李の歯軋りをする姿。事の顛末を聞かされた李は、自らの野望――中国マフィアの頂点に立つ未来図に綻びが生じる可能性に思い至ったようで、想像どおりの反応を見せる。


「これから先も、ワタシには関先生の協力が必要です。良好な関係を続けていくために必要なことがありましたら、なんでも仰ってください」

「私も同じ考えですが……このままですと、遅かれ早かれ義堂の口から真実が白日の下に晒されるでしょう。そうなれば、私は大竹組を破門されて終わりです」


 日本人らしい、いかにも遠回しな物言いに、焦れったさを感じた李は低く押し殺した声で、やはり想定通りの提案をしてきた。


「わかりました。義堂さえいなくなれば、問題は万事解決ですね」

「李先生。まさか、義堂を消すつもりではないでしょうね。そんなことをすれば、間違いなく私が真っ先に疑われますよ」

「大丈夫です。上海と繋がっていたのは、義堂だったとシナリオを書き換えてしまえばいいのです。関先生、この件はワタシに一任してはもらえませんか?」


 どこまでも予定通り。台本通りの進行に腹を抱えて笑い出したくなる衝動を押さえ、名演技に気がつく素振りも見せない李の、脳裏で組み立てられていく計画を聞いていた関は確信した。


 心配せずとも李の手によって、後顧の憂いは払われることを。そして、野望への第一段階に限りなく近づくことも確信した。


「それでは、今夜にでも月桃花で話し合いましょう。それまでにお喋りなを、こちらで見つけておきます」

「わかりました。それでは、十時頃、そちらに向かいます」


 終了ボタンを押した関は、我慢していた笑い声を開放し腕時計に視線を落とした。約束の時間まで、四時間弱――仮眠を取るには十分な時間だった。


 李がシナリオを描いていたように、関もシナリオを用意していた。李が粛々と義堂を殺し、その李を関が殺す。正確には、関が子飼にしている組員名簿にも載っていない特別部隊の一人。


 上海と繋がっていたのは義堂であることを発表し、仇討ちとして李を討てば、これに勝る床の上の組長への手土産はない。


 そこに密入国ビジネスで手に入れる五億を合わせれば、大竹組次期組長へ指名されることも間違いない。


 邪魔物を一掃してしまえば、あとは寝ていても権力の方から転がり込んでくる。高層から望む世界――雑踏を歩くゴマ粒大の人間、絶え間なく流れる電車、青信号に走り出す車、これまで幾度も目にしてきた景色が全て己の支配物に思えてならなかった。


 天が味方している。いや、自分こそが闇社会から表裏一体全てを支配する神なのかもしれない。


 直に手中に収まる世界に、手のひらをかざす。暴力チカラこそ正義の世界を夢見て、関はベッドルームへと姿を消した。

 

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