第17話

 関を乗せたベンツは、新宿駅西口の交差点で赤信号に行く手を阻まれ停車した。

 午前八時三十分――ヤクザにとっては一般人の日の出に近い時間帯に、後部座席で一人欠伸あくびを噛み殺す。


 右手の人さし指で輝くゴールドの指輪と揃いのオーデマ・ピゲのダイヤの文字盤が、ビル群の間から覗く冬の弱々しい陽光を乱反射させていた。


 眼の前の往来を行き交う愚集サラリーマンの群れに、関は運転席で前方を見据えながらハンドルを握る時東と、助手席で周囲を絶えず警戒している三枝に向けて紫煙を吐き捨て、気怠げな視線を向ける。


 豚は己が食料として飼育されていることに気がついていない。なんの疑問を感じることなく、自宅とオフィスを四十年以上往復する生活を当たり前だと受け入れている。たかだか一月数十万単位の給料の為に朝から晩まで働き詰めで、一体何を糧に生きている充足感を得られるのか――関には理解しかねたし、理解したくもなかった。


 今では闇社会で知らぬ者はいないまでの地位にまで登り詰めているが、両親はヤクザとえんゆかりもない、ごく一般的な所得のつまらない家庭だった。父親はうだつの上がらない中堅企業の管理職だった。


 ヨレヨレのスーツに袖を通し、底の擦り減った革靴を玄関で背中を丸めながら履いて出社する。午後の九時頃になると、更に背中を丸めて帰宅する。発泡酒で喉を潤しながら、つまらないバラエティ番組を酒の肴とする生活が、ささやかな幸せだと勘違いしていたお目出度い男だ。


 母親は母親で、生涯一度も金を稼いだこともない脳天気な女だった。つまらない父親にはうってつけの母親――そんな両親から生まれ落ちたのは、人間らしい感情を胎盤の中に置き忘れてきた怪物だった。


 小学生の頃、体力で圧倒的に勝る上級生と喧嘩になり、馬乗りになられて一方的に殴られていた関は図工の時間で使っていた木彫り用のノミで、何度も腹部を刺してやった。大した傷にはならなかったが出血量は多く、舐めてかかってきた上級生は今にも死にそうな顔で転げ回っていた。


 中学生の頃、既に上級生を従えていた関の噂を聞きつけて襲撃してきた暴走族相手に立ち回り、武器を奪うと総長の頭を滅多打ちにし、二度と単車バイクに乗れないように両手の十指をすべて追ってやった。


 高校生の頃、近隣の不良全てから恐れられていた関が一人でいるところを見計らい、お礼参りにやってきた二十名からなる不良集団に襲撃された。流石に袋叩きにされたが護身用に忍ばせていたナイフで目についた奴を次から次へと刺し、結果的に二人を殺害した。


 いずれの事件も、悔悟の念に駆られたことは一度たりとない。他人ひとは口を揃えてこう言った――幼い頃に、実の両親から虐待を受けているたのではないか。もしくは、育児放棄ネグレクトされていたのではないか。


 今になって思えば、性善説を信じてやまない脳内がお花畑の連中は、なんの原因もなしに関のような暴力性を備えた人間が存在することを本能的に信じたくなかったに違いない。


 だからこそ家庭内の諸問題と紐付けようと試みるのだが、生憎両親には怪物の息子を殴る度胸も、ましてや罵倒する勇気もなかった。あったらあったで両親とて無事では済まないが、仮に家庭内の問題で自分のような獣が生み出されるのだとすれば、この世は鬼畜で溢れ返って少しは愉快な世界になり得たかもしれない。


 次第にスピードを落とすベンツが完全に停車すると、時東は機敏な動きで車外に飛び出してドアを開いた。昨晩は、遅くまで李の常識外の強さを誇る肝臓に付き合った為、睡眠時間はせいぜい二、三時間。


 時東から遅れて車外に姿を現した三枝は、通行人を威嚇するように監視していた。スキンヘッドで、かつ二メートルの巨体がチョークストライプ柄のダブルスーツを纏って威嚇していれば、視線があった通行人が一様に顔を伏せて空気と化すのも無理はない。


 アスファルトに降り立った関は、吸いかけの煙草を指先で弾き飛ばす。朝から降り出した氷雨から守るように三枝は傘を差して、関の肩がそれ以上濡れることを避けた。充血しきった眼の下には、濃い隈がくっきりと浮かび上がっている。それは脇を固める時東も同じ。


 関が流れ上仕方なく李の酒に付き合っている間に、二人には裏切者の狭間のを任せていた。それに加え、李から受け取った金の成る木――密航者の名簿に記載されている身元保証人や、氏名の照合、雑多であるが欠かすことのできない雑務を命じられ、徹夜で仕事を終えたばかりだった。


 やれ、と命じられて出来ない奴等ではない。むしろ、やらなければ関から無能の烙印を押されることを意味する。

 なまじ上海マフィアとの繋がりを深く知りすぎたが故に、下手を打てば次に消されるのは自分であることを骨身に沁みて知っていた。


「それにしても……こんな時間に呼び出しなんて、一体なんの要件なんでしょうかね」

「さあな。なにせ、義堂ヤツは約束もなしに早朝からゴルフに誘ってくるような男だ。暇を持て余して仕方ないんだろうよ」


 怖怖こわごわと口を開いた三枝の問いかけに気怠い声で返すと、隣で警護をしていた時東が濡れたアスファルトを蹴って駆け出す。

 義堂司ぎどうつかさが会長を務める轟連合が所有するビルのロビーに足を踏み入れると、不審者がいないか先に確認をして後に続いた。


 義堂司――大竹組組長である佐々岡徹心の兄弟分で、舎弟頭を任されている。以前は関西に身を置き、頻繁に起きていた抗争の真っ只中で日本刀ポントウ片手に先陣を切る様から、人斬り義堂とも呼ばれていた。


 数多の対抗組織を潰しては吸収し、大竹組の急成長を支えた人物ではあったが、それも今は昔――今年で七十になる老体は肉が削げ落ち、覇気は微塵もなく、定年退職した爺のようにシノギそっちのけで、趣味のゴルフや盆栽に勤しんでると聞く。


 語り草だった昔ならいざ知らず、関が最も唾棄だきする豚に成り下がっていた。


 ロビーに到着したエレーベーターに時東が乗り、関、三枝の順で乗り込むと、最上階のボタンを押して筐体きょうたいは上昇していく。


 七階建てのビルの一階から四階部分のテナントは、轟連合のフロント企業であることは言うまでもない。五階は部屋済みの若い衆の居住空間、六階は組事務所、そして最上階が、近頃はめっきり使用頻度は減っていたが、盃事などを催す際に使われる和室の大広間となっている。


 何にせよ、早朝から轟連合の事務所に訪れるのは関も初めてのことだった。


「もしかしたら、中国と付き合っていることがバレたのでは」

「おい、滅多なことを口にすんじゃねえ。どこで誰が聞いてるかわかったもんじゃねえだろ」


 巨漢の三枝が、頭ひとつ分小柄な時東が漏らした言葉に敏感に反応して小声で制した。確かに一部では、自分と上海の関係性を疑う声が上がっているのは事実――。


 厳に情報が漏れぬよう努めてきたはずだが、今のところ密告者の存在は定かではない。大方、自分の活躍ぶりに嫉妬している鼠の仕業だろうと関は当たりをつけていた。


 犯人は見つけ次第、この手でくびり殺してやりたい気持ちは山々だったが、証拠が出てくるわけでもなく信憑性は噂の域を出ないので、今日まで静観を決め込んでいた。


 関を快く思っていない義堂からの招集に応じるまでは――。


 七階に到着すると、無機質なスチールデスクが横一列に並び、パーテションで区切られたフロアを念入りに掃除していたスウェット姿の組当番が、関の姿を見るなり軍隊のように背筋を伸ばすと声を張り上げて挨拶をした。


 一見すると簡素なオフィスにしか見えないが、以前は代紋入りの提灯や壁掛けフラッグの存在感が訪れる者を圧倒させていた。


「規則ですから」


 震える声と手で組当番をしていた若い衆二人が、万が一にも関が武器の類を持ち込んでいないか入念に身体検査ボディチェックを行う。それは何度繰り返しても耐え難い屈辱だった。


 執拗な検査がようやく終わり、解放されると会長室に通される許可が降りた。


「俺が戻ってくるまで、ここで待ってろ」


 鬼が出るか蛇が出るか――。

 ノックした扉の向こうから、義堂の濁声が漏れた。

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