第16話

朋友バンユ。今日が何の日か、覚えていますか?」

「ええ、もちろん。まだ二次団体の若頭だった私と、当時上海マフィアのトップ2だった李先生が初めて手を交わした日ですよね」


 阿片窟あへんくつを思わせる紫煙立ちこめる店内、薄暗い照明、下卑た会話の応酬――李に招かれてやってきた中国人クラブ、月桃花では、ボックス席の至る所で脂ぎった狒々オヤジどもが欲望を曝け出している。


 太腿までスリットの入ったチャイナドレス姿のホステスに、あの手この手で迫っては、暗がりをいいことに胸や尻に手を伸ばしていた。


〝健全な〟クラブであれば、すぐにホステスから店側にクレームが入るような猥褻行為も、月桃花を含め歌舞伎町に存在する中国人クラブでは、日常的な光景である。


 同じ中国人でも、銀座のクラブで働いている中国人は留学ビザを取得している高学歴で、かつ家柄が良い事が多い。対する歌舞伎町の中国人ホステスは、留学ビザや就労ビザが失効した不法残留者がほとんどで、学歴もなければ、なかには日本語をろくに話せないものもいる。


 日当こそ銀座のそれと歌舞伎町とでは倍ほど給与の額が変わるが、ここ歌舞伎町の中国人クラブでは公然と売春が認められていることが最大の違い。

 狒々オヤジどもがホステスを口説こうと必死なのは、ボックス席についた女を我が物にせんと尽力しようとしているから。指を立てて値段交渉をしている光景が至る所で見られる。


「今も忘れられませんよ。関先生の手際のいい仕事っぷりは。アレを見て、唯一信頼を置ける日本人だと理解しました」


 関の正面のソファで、李は自らにしなだれる従業員の肩に手を回しながら、その声色と同様に関にはとても真似できない柔和な笑顔で手に持つグラスを揺らした。

 それを合図に、女は新たに酒を注ぐ。


 髪型も服装にも、これと言って目立った個性は見受けられない。地味なブラックのシングルスーツ、腕にはカシオ、整髪料で整えた無難なショートヘア。

 日本人の群衆ムレのなかに混ざってしまえば見分けもつかない男だが――一度細めた眼に絶対零度の殺意が宿ると、例え肉親だろうが平気で殺してみせる感情のない獣。


 関は己の野望ゆめの第一段階、大竹組組長の座から現組長である佐々岡を引きずり落とし、老害幹部の連中から満場一致の推挙を得たうえで新たに自分が就任する。


 第二段階、同規模の対抗組織である井筒会を一掃し、可能ならば取り込む。それが出来なければ徹底的に蹂躙する。


 第三段階、暴対法に縛られた現状のチンケなシノギは全て捨て去り、諸外国のマフィアと提携することで日本に世界有数の犯罪シンジゲートを設立する。


 順当にいけば三十、いや、四十年はかかってもおかしくない気の遠くなる野望だった。一代で野望ゆめを叶える為には、ちまちまと牛歩のような出世を臨んでいれば到底間に合わない。


 先ずはどうすれば最短で大竹組を支配できるかを考えに考え抜いた。が、そう簡単に答えを導き出せるはずもなく当時の自分は、大竹組の二次団体であった稲代組で組長付きの運転手兼護衛を任されていた。


 いつものように後部座席に組長オヤジを乗せ、風林会館前の交差点に差し掛かったところで、僅かに開けていたパワーウィンドウから複数の罵声が車中に流れ込んできた。


 赤信号に止められ、転がしていたベンツを停車させた関は数メートル先に視線を移した。すると見覚えのある顔を含めた男達四人が、武器ドーグを手にアスファルトの上で一人の中国人を袋叩きにしている光景を目撃した。


 ――あいつは、たしか宝来と言う名の男だったか。まだ歌舞伎町にいやがったのか。


 同時期に稲代会の準構成員となり、すぐに頭角を現して盃を貰った関とは対称的に、小太りで喧嘩ゴロも巻いたこともない虚栄ハッタリづくしの宝来は、不良債権の取り立て一つまともにできず放逐されたと兄貴分から聞いていた。


 自分が鼠であることも知らず、不相応に虎である俺に何かと対抗意識を燃やす宝来のことなど、気にする必要性も感じなかった。姿をくらましたと聞いて、なにも思わなかったのは至極当然のことである。


 その宝来が、徒党を組んで見ず知らずの中国人を集団で暴行している。後に理由を知ることとなるが、馬鹿なことに宝来が当時――あくまで本人の妄想だが――付き合っていた中国人の女が、袋叩きに伸されている男と二股をしていたと知って地元の後輩を引き連れて来たらしい。


 鼠程度の実力が寄り集まったところで、関には何ができるとも思えなかった。だが、幸運にも不意打ちが成功したようで、後はその場から離れれば済むだけのように見えた。


 ――馬鹿な奴だ。


 後部座席リアシーㇳで一方的な私刑リンチを目にしていた組長は、ポツリと呟いた。その言葉の意味を関はすぐに知ることとなる。


 どこで騒動を聞きつけたのか、血走った目をさせた五、六人の中国人が、怒声を上げながら歩道を歩く堅気の人間を押し退けて宝来達に勢いそのまま殴りかかったのだ。


 手にしていた武器は瞬く間に奪われ、額を割られてのたうち回る者、鼻を折られて鮮血を撒き散らす者、自ら嘔吐した吐瀉物に顔から突っ込む者、ものの数分で圧倒的な暴力チカラを遺憾なく発揮した彼らを見て、関はハンドルを強く握りしめた。


 ――この暴力こそ、野望の為に利用する必要がある。そう考えた。


 それから関は中国の流氓について深く調べ上げた。その過程で、中国の黒社会では武闘派揃いの福建や台湾が、歴史的に上海の流氓を見下している傾向が強いことがわかった。


 単純に目先の利益を求めるのであれば福建や台湾の流氓と手を組むのが最良だったが、関が選んだのは上海だった。

 上海というのは、その土地柄、公安の監視の目が中国一厳しいとされる。日本以上の監視網のなかで必然的に生き残るためには、経済ヤクザに分類されるようなシノギに手を出すしか選択肢はなく、頭脳明晰な者しか生き残ることができない過酷な環境だった。


 かといって錬金術ばかりで荒事と無縁かといえば、福建や台湾が馬鹿にするほど臆病者が揃っているわけでもない。

 例えば――今も忙しなく店内を動き回るボーイの中に混じり、関を剣呑な眼差しで見つめるワンは懐にトカレフを呑んでいる。


 李の護衛を任されている二十代前半の青年は、流氓同士の争いで姿を消した台湾勢が、まだ首の皮一つ残して歌舞伎町に居座っていた頃、まだ十代でトカレフ片手に事務所へ突撃するとその場に居合わせた三人の台湾人を三発で射殺せしめた。

 それも全員眉間に風穴を開けて。

 

 その事件が引き金となり、台湾はその日限りで歌舞伎町から姿を消すこととなった。暴力だけでは足りない。その力を十全に活かせる頭脳の両方を兼ね備えていることが、パートナーに選んだ最大の理由だった。


 関の背後に立つ三枝の緊張感が、猥雑な空気を媒介してうなじに伝わる。

 三枝も、そこいらのヤクザと比べればそこそこの修羅場を潜り抜けてはきている猛者であることに変わりはないが、一分先の未来も見えていない荒くれ共からなる台湾こ流氓相手に、一人で立ち向かっていた王の前では霞んで見えてしまう。


 どれだけ腕力に秀でた人間も、狂獣を前には為す術もない。そして、王を従える李とは比べるべくもない――対峙できるとすれば、この関克洋を除いて他にはいやしない。


 記憶を遡る李に追従し、関も侍らせていた女にノンアルコールを注がせて昔語りに付き合った。


「李先生の信用を得るためであれば、無能な頭を挿げ替えるお手伝いをするくらい、どうということはありませんでしたよ」

「謙遜がお上手ですね。ウチのホステスにも、爪の垢を煎じて飲んでほしいくらいです」


 李の手を組む際に、なにも手土産を持参せずに訪れたわけではない。李も関と同様に、中国の闇社会の頂点を目指していた野心家だったのだが、伝統的に臆病者と馬鹿にされていた上海の流氓の評価をさらに押し下げていた二十年前のボス、宋の存在を誰よりも疎んじていた様子だった。


 臆病で小狡こずるいだけの腰抜け、ある意味――上海の流氓に対する評価を地で体現する金の亡者を消す必要がある。

 そこで提案を持ちかけたのは関からだった。本家の目を盗んでは、たびたび李の元へ足を運んで関係性を構築していた中で宋の抹殺を約束した。


 その数日後、宋が自宅で妻と子供とともに射殺死体として発見されたが、事件の捜査が積極的に行われたとは聞いてない。その後、李がボスへと繰り上がったことで歌舞伎町の勢力図は大きく様変わりした。


 偽装結婚、臓器売買、密入国ビジネス――李と手を組んがシノギは数知れず。自らの親が邪魔だと告げれば、李が遣わした王と、もう一人の護衛であるカクが部下を引き連れ、クラブで鼻の下を伸ばしていた組長オヤジをクラブのママごと弾いて殺害してみせた。


 稲代組の組長の座を襲名し、私腹を肥やすことに余念がない本家の幹部連中に、付き合うことすら御法度である中国の不良と共に稼いだ上納金をせっせと貢いできた。


 互いが互いの野望のために、相手を利用してきた。それは付き合うに値する利用価値が存在したから。恐らく、李はまだまだ自分との付き合いを絶ちくないはずだった。


 だが、それも潮時かもしれない――。


 密かに思い描いていた計画プランを脳裏で組み立てながら、差し出されたグラスに小気味良い音をたててグラスを当てた。当然酒精など混入していないが、近い将来、足元でくたばる予定の中国の虫ケラの最期を想像すると気分が高揚せずにはいられなかった。

 

 

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