第15話

 バスケットシューズが床を噛む音、荒々しく鉄扉が開かれる音、くぐもった男の情けない悲鳴、肌を突き刺すビル風に三枝が鼻をすする音を聞きながら、ゆったりとした足取りで非常階段に到着した関は眼下の踊り場で拳を鮮血に染めた時東ときとうの姿を確認した。


 護衛の一人で、二メートル級の巨漢である三枝とは対称的に、時東は百七十センチ台で一見華奢に見える体躯だが、三枝に負けず劣らずの経歴を持っている。


 元は世界も視野に入れていたというスーパーフェザー級のボクサーだったが、繁華街で喧嘩ゴロを吹っかけてきたチンピラ三人を相手に、試合に負けた腹いせに暴行を加えたことで夢は断たれた。


 頬骨骨折、眼窩底骨折、鼻骨骨折、下顎関節骨折、で済んだ一人は幸運だったと言える。残りの二人は顔面骨折に加えて、頭蓋骨陥没、眼球破裂、脳挫傷、外傷性硬膜下血等々――。


 一人は病院に到着後、間もなく死亡した。今もその当時負った傷跡は、時東の拳に残されている。


 傍らで顔を抑えながら呻き声を上げていた狭間は、尻餅をついた姿勢で顔面を掌で覆っていた。左半分は隠しきれないほどに醜く腫れ上がって歪んでいる。


 鼻血塗れの生気を失った顔が、人の命を虫ケラ程にしか感じない関の到着に気がついた瞬間、氷像と化して固まった。

 従業員から俺の名を聞いた狭間が、裏口から逃亡を図ることは容易に想像できたのめ事前に非常階段へと時東を配置させておいて正解だった。


若頭カシラ。仰っていた通り、こいつ非常階段から逃げようとしてましたよ」

「ご苦労。車は下につけてあるか」

「はい。すぐにでも出せます」

 

 一段一段ステップを鳴らして下りると、逃げ場もないというのに必死に距離を取ろうと尻餅をつきながら後退る狭間の肩を、時東は逃すまいと掴んで離さなかった。


 ――バカな男だ。


 ブカブカのパンツの股間部分に、負け犬がシミの跡をにじませている。眼前に立った関は自らをたばかっていた裏切り者に、憤怒に燃える両眼を向けた。


「TOKYO・NEO」は、覚醒剤シャブ売人プッシャーという経歴と、若年層に人気なDJという二足の草鞋ワラジを履いていた狭間に目をつけた関が、地を這う鼠ごときに貸し与えるには過ぎた規模のハコだった。


 顧客の殆どは裕福な家庭で育ち、何不自由なく甘やかされて育ったガキども。刺激を求めて誘蛾灯に誘われるのは羽虫の習性で、毎夜のように乱痴気騒ぎを起こして鬱憤を晴らしていた。当然のことだが、フロアの中央で涎を垂らしながら金切り声を上げている連中が、素面シラフで愉しんでいるはずもない。


 四六時中金策に走るような貧乏人の常用者ジャンキーでは、とても手が出せない相場を上回る価格の覚醒剤シャブを次から次へとクラブ内で購入していく。そして優良顧客は金の成る木を引き連れて再びここへやってくる。


 そうした好循環を数年も続けているうちに、関にとっては端金とはいえ大所帯の大竹組を支えるシノギの一つにまで成長を遂げた。


 TOKYO・NEOに行けば気兼ねなく覚醒剤が手に入る――。そうした噂が六本木界隈で公然と流れても、警察は一向に家宅捜索ガサ入れを決行する気配はなかった。何故かというと、顧客のガキどもの親の中には警察庁幹部や、大物政治家も含まれていたから。


 まさか、自分の子供が火遊びを超えた範疇の犯罪に手を染めていることを知られたら――それも、特定指定暴力団に名を連ねる大竹組の息がかかっているクラブだと外部に知られたらどうなるかは、火を見るより明らかである。


 どれだけ立派な信念を持つ人間であっても、社会的な立場を揺るがしかねない事実に蓋をし固く鍵をかける。そうして世間に露顕することは永久にない。


 狭間はハコの売上の一部と、覚醒剤シャブの売上さえ素直に上納していればよかった。少なくとも月々数十万程度の小銭を稼ぐために汗水流すサラリーマンより、余程良い暮らしを送れていた。


 その環境を与えてやった。にも関わらず――狭間は欲をかきすぎた。


 黙っていればわからないとでも思ったのか、覚醒剤の売上の一部を「TOKYO・NEO」の〝表〟の売上として計上し、資金洗浄マネーロンダリングを働いて私腹を肥やしていたのだ。そんなことをすれば、内部に潜り込ませた内通者によってバレるとも知らずに。


「狭間。この俺に謝罪することがあるだろ」

「ま、待ってください、何のことだか、俺にはさっぱりわからないで」


 認めれば、即〝死〟に繋がる言い訳は、関の前蹴りで遮られた。踊り場に飛び散る絶叫、非常扉から漏れる騒音に掻き消されることもまた、想定済みだった。


 何度も、何度も、殺意を込めてツラを蹴り踏み潰す。懇願の声が小さくなるに比例して、内なる殺戮衝動は肥大していく。間に入った三枝、時東の二人に止められていなければ、この場で殺害していた事は間違いない。もしくは、二人もろとも殺していた可能性もある。


「若頭ッ、今殺してしまったら金の在り処が分からなくなりますよ」


 すんでのところで一命を取り留めた狭間の顔は、前歯が全損し、瞼が完全に閉じるほどに腫れ上がっていた。キュビズムの人物像のように歪な形に骨折した鼻から血液と髄液が入り混じった体液が垂流している。


「残念だな。もうお前に釈明の余地などない。この関克洋を裏切ればどうなるか――まさか知らなかったとは言わせないぞ」

「やめへ……やめへふれ……」

「おい、さっさと連れて行け」


        ✽✽✽


 口にガムテープを貼られ、身動きがとれないよう拘束した狭間を三枝がベンツのトランクに押し込んだ。時東が開いた扉からリアシートに腰を沈めると、頃合いを見計らったかのように着信音が車内に鳴り響いた。薄暗い車内に浮かび上がる液晶画面には、懇意にしている男の名前が表示されている。


「関さん。は、済みましたか?」

「ええ。ちょうど車に乗り込んだところです」

「そうですかそうですか。大件垃圾粗大ゴミは車と一緒にワタシ共が処分いたしましょう」


 扉が閉められると、電話の主――上海の流氓を束ねる頂点トップに三十代の若さで就任した李偉リーウェイが、異国の人間とは思えない程の流暢な日本語で茶を勧めるような気さくさで尋ねてきた。


 李とは足かけ二十年来の付き合いになるが、怒声はおろか声を荒らげる場面を一度としてお目にかかったことがない。


 聞く者に安心感すら与える柔らかな声色とは裏腹に、自分と同じ氷の血を体内に流す者。人を人とも思わない冷酷な殺戮機械マシーンは、裏切者の処刑を部下に命じる際も至極冷静に言い放つ。


 長らくを結んでいるとはいえ、関に利用価値がないと判断を下せば容易に切り捨てる性格であることは、出会った当初から熟知している。それは李が関に対して抱く印象も同様で、必要がなくなれば自分を始末することも辞さない獣であることを知っているはず。


 期限付きの関係ではあるが、今はまだ良好な関係を維持継続したがっている李は、スピーカーの向こう側で笑っているに違いない。


「いえいえ。この程度の後始末に李先生のお力を借りるまでもないですよ」

「遠慮は必要ないです。日本人は謙虚が過ぎますね。関先生とワタシ、朋友バンユなんですから、迷惑も分かち合う仲です。朋友の足を引っ張る豚はとっとと処分して、今夜はうちのクラブで一杯いかがですか」

「わかりました。それではお言葉に甘えて、今からそちらに向かいます」


 腹の探り合いは挨拶代わり――。

 通話を終えると、ハンドルを握る時東に行き先の変更を告げた。今や歌舞伎町を〝暴力チカラ〟で支配しているいるのは、中国マフィアと言っても過言ではない。


 ヤクザに対しては強権を働かせる法律は、こと中国マフィアが相手だと全く機能していないのが実情だ。

 ヤクザだろうが警察だろうが、関係なく暴れ回る中国の流氓に、せいぜい強制送還するしか手がない警察が及び腰になるのは無理もない。


 かつては全国に散らばる烏合の衆を、それこそ絶対的な力で傘下に加え入れることで昭和から平成の時代に、大竹組を構成員数でいえば全国最大規模の暴力団へと成長を遂げた立役者である現組長、佐々岡徹心ささおかてっしんも時代の趨勢には敵わなかった。


 末端の部下が起こした罪で〝使用者責任〟を問われ、警察に家宅捜索ガサ入れをされかねない時代に拳銃を懐に呑むのは、組長付の護衛であっても許されない。かつては修羅の道を歩んでいた男も、今や生ける屍――もしくはお飾りに過ぎない。であるならば、とっと引導を渡してその座に自分が座ってやる。


 そう近くない未来に訪れる未来を思い浮かべると、窓ガラスに写る冷酷な顔が、こちらをじっと見据えていた。

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