第12話

 膝は震え、額から流れ出る脂汗が宝来の精神状態を雄弁に語っていた。

 いくら筋肉の鎧を纏った歴戦のつわものであっても、逃げ場のない室内で、しかもすぐに逃走を図ることが難しいボックス席のケツが沈むほどのソファに腰掛けている状態で銃口を向けられでもすれば、宝来までとは言わずとも無駄な反抗を諦めてハンズアップするに違いない。


 仮に――その度胸がないことを見越した上で、宝来が短い手足で藻掻いて決死の逃亡を試みたところで眉間に焦点を刻んだ十字線レティクルから逃れられる可能性はゼロに等しい。


 いくら愚鈍な豚でも、己に向けられた濃密な死の気配に気づかないはずもないのだが、恐怖による生理現象を利きの悪い空調に責任を押し付けると、キッチンへと引っ込んでいった店主マスターに怒号を飛ばした。


「おい、店主マスターッ! 少し店内が暑すぎやしねえか!」

「は、はいっ、すぐに下げますっ」

「木之下、お前もお前だ。俺がこの場から動かなかったのはな、お前さんが本気で人を殺す事ができるのか、真贋を見極めていたに過ぎないんだよ。もしもその度胸がないと俺が判断していたら、今頃汚ねえ床を舐めていたのはお前のほうだぜ」


 パーラメントを挟んでいる指は小刻みに震えていた。先に座っていた榎原は、間に割って入るわけでもなく終始口を開けて絶句したまま固まっている。


「そうか? 俺には恐怖で足が竦んで身動きがとれないようにしか見えなかったがな」

「な、なんだとッ!? こっ、この俺が、ライフルごときに芋引いてるとでも思ったかッ! クラァッ!」


 怒りか、それとも羞恥か――顔を真っ赤に染めた宝来は唾を飛ばす。 


「なら教えてやる。俺がまだ盃も貰っていない準構成員だった頃の話だ。当時歌舞伎町で幅を利かせていた台湾の流氓りゅうみん、流氓ってのは中国系マフィアの総称だが、風林会館前でチンピラ一人相手に台湾の流氓が、総勢十人から狼狽ろうぜきを働いていた。俺は当時、〝歌舞伎町の狼〟なんて二つ名で呼ばれていたほど向こう見ずな男だった。これ以上歌舞伎町で好き勝手なまねをさせてなるものかと、スーツに忍ばせてナイフを手に集団に突っ込んだ。今でもよく覚えている――致命傷にはならなかったが、台湾の不良どもが深い傷を負って這々の体で逃げていく姿をよ」


 遠い昔を思い出すように、もとから細い目尻をさらに細めて物語ると、すぼめた口から天井に向けて煙を吐き出した。

 木之下には宝来の言葉の節々から、表情から、目の動きから、関克洋という男を必要以上に恐れ、嫌悪し嫉妬している感情を見抜いていた。


 言葉をかわすことのできない野生動物であっても、瞳を覗けば何を考えているかくらい理解できる。宝来の瞳に、声色に共通しているのは、強者に対する卑屈な妬み嫉み、それだけだ。


 長ったらしい話のオチとしては、その助けたチンピラというのが、今回の標的ターゲットである関克洋だというのだから眉唾ものもいいところ。


 万が一にも信じる気にもならないが、その与太話が真実であるとするならば、関という男は大したこともないチンピラ風情にすぎず、木之下に頼むまでもなく宝来自らの手で始末をすればいいだけのことだ。


「狼だろうが室内犬だろうが一向に構わないが、俺から言えるのは『約束は必ず果たせ』ということだ。何処まで逃げようとも、狙撃眼鏡スナイパースコープで捉えられる距離にいれば、昼も夜も関係なく必ずや頭蓋骨が混じった脳味噌と脳漿を晒すことになる。覚えておけよ」


 先ずは妙な裏切り行為を行わないようくさびを打つと、初めて銃口を逸らしえガンケースに収納し、言われたとおりに席に着いた。


 円堂夫妻の大事な一人娘を取り返すまでは、腹の底で煮えたぎっている溶岩マグマの如き怒りに、しばし蓋を閉じる。


        ✽✽✽ 


 東京に滞在している間の当分の住居すまいは、宝来の知人が所有しているというアパートの一室を借り受けることとなった。


 西新宿の一角――時代に取り残されたように高層ビル群が林立する下に建つ、築三十年超、六畳一間のトタン屋根のアパートは、至るところが錆びついて階段などは今にも足場が崩れかねない腐食具合だった。

それでも榎原のような名ばかりとはいえ、裏社会に身を置いているヤクザは賃貸契約一つまともに結ぶことができない。


 居住者が暴力団員であることを知りながら賃貸契約を結んだり、建物を貸し続けている場合には、たとえ適正な賃料の支払いを受けている場合でも暴力団員に対する利益供与に繋がるとして各都道府県の暴排条例違反に問われる場合がある。


 そこで住人が誰一人としていない解体寸前のアパートを宝来がタダ同然で借上げ、一室を榎原が相場以上の家賃を支払って住んでいると聞かされた。


 同じアパートの二階には、として片付けられた鷹岡の部屋もそのまま手つかずの状態で残されている。他にも刑務所で服役をしている組員の部屋もあると説明を受けた。


 一昔前のヤクザといえば、いい車を転がし、いい女を抱いて、堅気カタギの人間から甘い蜜を吸い続けて私腹を肥やすイメージがあったが、どうやら現在では真面目に働いてる人間のほうが余程良い生活を送っているらしい。


「ヤクザなんて、とっとと廃業して真っ当に働く選択肢はないのか」


 与えられた部屋の変色した畳に、少ない荷物を詰め込んだボストンバッグとガンケースを置いた木之下は、案内役を宝来から仰せつかった榎原に問いかけた。


 今日日きょうび、ヤクザなど官民問わず廃絶運動の対象としてろくに食っていけない存在だというのに、何故宝来のような男のもとにいるのかが単純に気になって尋ねてみた。


「俺だって、ヤクザに憧れて一構成員になったわけじゃねえよ。だけどよ、知ってるか? 暴排条例のせいでな、暴力団を離脱しても五年間は暴力団関係者とみなされるんだよ。真っ当に生きようとしたって、銀行口座を開設することも、自分の名義で家を借りることもできやしない。暴力団員であったことを隠蔽して履歴書に記載しようものなら、虚偽記載として詐欺罪に問われる場合もあるんだよ。ヤクザを辞めて底辺以下の生活を送るくらいなら、屑だとわかっていても今の生活を手放すわけにはいかねえだろう」


 榎原の苛立たしげな声を聞き流しつつ、一歩畳を踏みしめるたびに埃が舞う空気を入れ替えようとりガラスの窓枠に手をかけたのだが、まるでびくともしない。


「どいてみろ。このアパートの窓は開けるのに少々コツが必要なんだよ」


 隣に立った榎原は、勝手知ったるというように窓枠の四隅を拳で何度か叩くと、建付けの悪い窓を眼の前でいとも簡単に開けて見せた。


 吹き込んできた寒風に頬を叩かれ、止まっていた時間が動き始める。榎原は、ラインどころかスマホも持っていない木之下に携帯の番号をメモした紙を手渡すと、踵の潰れたスニーカーを履いてドアノブに手を掛けた。


「しかしまあ……組長オヤジの執念深さには恐れ入るが、その組長に目をつけられたアンタには少しばかり同情するよ。何かあったらその番号に連絡してくれ」


 そう言い残すと、木之下を残して慟哭に似た音を奏でる扉が閉められた。

 同情――血と肉片が飛散する戦場を渡り歩いていた頃の自分に、欠落していた感情。感情を捨てきれないものから、凶弾に斃れていった。


 宝来の思惑など知ったことではない。関という男にも個人的な恨みはないが、瑠奈を救うために今一度人間に銃口を向ける覚悟を決めて畳に仰向けに寝転がる。

 オールバックに髪を固めた男が写る写真を眺めて、静かな殺意を燃やした。

 

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