第二章
第11話
耳障りなドアベルを潜ると、目に映るのは昭和の時代から時が止まっているような古めかしい内装の喫茶店だった。店内は薄暗く、隅に置かれた観葉植物の葉は項垂れて勢いをなくしている。
元は白一色だったであろう壁紙は経年劣化と煙草のヤニで黄色く染まっていた。その壁に
良くいえばノスタルジック。ありのままを表現すれば時代に取り残された遺物。店内には数席のカウンター席と窓側にボックス席が並んでいるが、平日の昼時だというのに客の姿は伺えず、閑古鳥が鳴いていた。
歌舞伎町の奥まった立地にある喫茶店の店主は、木之下がフロアに足を踏み入れた際に怯えきった子鹿のような視線を送ってくるとカウンターから続く奥のキッチンに姿を消していった。
客はおろか、従業員の姿も消えた店内には、虚しさを助長させる五、六十年代のオールディーズが流れる。辛気臭い店内の
シルバーグレイのダブルスーツの下から突き出た太鼓腹を揺らし、冬眠前のツキノワグマのような皮下脂肪を溜め込んで、短い脚を組んでいる小太りの中年こそ――宝来達人本人だった。
「よお、あんたが木之下さんか。実物は随分と
立てば百六十センチ前半程度しかないと思われる宝来は、ソファに座ったまま下卑た笑いとともにつまらない冗談を口にした。実力がない奴ほど多弁になるのは、どこの世界でも変わらない。
木之下は自分のことを、伊達男とも容姿が優れているとも特別意識したことはなかったが、さすがに豚と変わらない宝来と似ているという点は生理的に認め難かった。
確かに小柄で平坦な顔つきの日本人の中に混ざると、いい意味でも悪い意味でも目立つことは事実である。奥会津の集落に住み着いた初期の頃は、閉鎖的な環境に馴染めず村人から異質な存在へ向けられる視線を痛いほど感じたものだ。
それに女を覚えた年齢も他人より遅いくらいで、宝来が冗談めかして告げたような真似は一度たりとも経験がない。木之下が愛した女性は生涯唯一人――その相手も、既にこの世にはいない。
嫉妬を隠すように木之下の全身に視線を這わせると、座るように顎で促した。
「組長、その……鷹岡の兄貴のことは申し訳ございませんでした」
「過ぎたもんは仕方ねえ。そもそも無鉄砲が故の結果なんだろ。無事連れてきたってことで許してやる」
「あ、ありがとうございます!」
宝来は頭を下げて謝罪する部下に鷹揚な態度を見せてはいたものの、木之下には器量の大きさを見せつける三文役者の演技にしか見えなかった。
宝来がスーツの内側を漁ってコバルトブルーのボックスからパーラメントを引き抜くと、慣れた手付きで榎原は横に移動し、突き出された穂先に火を灯す――。
少し蒸すな、と呟くと上着を脱いでシャツの袖を肘まで捲り、ネクタイも緩める。自然と和彫りが覗いた。
季節は師走だ。当然蒸し暑くもなければ、むしろ空調の調子が悪い店内は肌寒いくらいだった。木之下に刺青を見せたいという魂胆がみえみえだった。
もしも――宝来に俺を萎縮させる意図があるのだとすれば、それは全くの無意味と言っていい。五メートル先の倒木の陰に潜んでいたクマに襲われたことがあるが、瞬く間に距離を詰められるも心動じず、散弾銃を素早く構えると目と鼻の距離で放たれた弾丸は硬い頭蓋骨を打ち砕いた。
生涯数多くの死線を潜り抜けてきた自分に、今更恐怖を覚えさせる存在などありはしないのだから。
「そんなところで突っ立ってないで、アンタも早く座れよ」
微動だにしない木之下に、榎原は声をかけるもそれを無視する。父親譲りの冷酷な眼で、薄っぺらな宝来を至近距離から射殺すように視線を逸らさないでいると、僅かに黒目が揺れ動いた瞬間を見逃さなかった。
一介の組長とはいえ、所詮街のゴロツキどもを従えていい気になっているに過ぎない小山の大将であることは早々に看破していた。――とはいえ、瑠奈に危害が及びかねない現状で始末することはリスクが高すぎる。
ちりちりと、身を焦がす怒りが木之下の臓腑を焼く。かつて、紛争地帯で同僚を人質に取られた経験ならあるが、その時とは比較にならない程の感情の起伏に昨晩から睡眠を取ることも出来なかった木之下は、再びの催促にも答えずソファに腰を下ろそうとしなかった。
フロアで立ったまま宝来を
「な、なんだよ。そんなに怒ってよ。あれか? 親友の娘に危害を加えるか心配してんだろ? それなら安心しろ。これから説明する内容をきちんとこなしてくれさえすれば、俺は何もしねえよ。自慢じゃねえが、俺は関と違って一度交わした約束を違えたことはねえ。元はと言えば」
「宝来。お前の自慢話になど興味はないから先に伝えておく。瑠奈にもしものことがあれば――俺は躊躇なくお前を消すから覚悟しておけよ」
無駄に話が長くなる気配がした木之下は、楽器の運搬用ケースに偽装させたガンケースのファスナーを僅かに開けると、もう二度と手にすることはないと自らに固く誓ったレミントンM700の銃口を鼻っ柱に突きつけた。
これは脅しではない――本能的に察した宝来の顔から笑みは消え去っていた。
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