第10話

 防水エプロン、ゴム手袋、ゴム長靴、不織布頭巾、マスクと、人畜共通感染症予防の服装に着替えた円堂はオープンまでの短時間で、惚れ惚れする手際の速さでイノシシの解体に取り掛かった。


 素早く頸動脈を切断すると、背後で解体の様子を見ていた榎原の小さな悲鳴が聞こえた。体表に付着している汚れやマダニを殺すために六十五度のお湯で洗い流す〝湯剥き〟を済ませ、電動式ウィンチで吊り下げれた後ろ脚から下に向けて、皮を剥いでいく。


 榎原は粛々と進められていく解体作業から目を逸らすと、顔から血の気を失い部屋の隅で固まっていた。

 日常生活で屠殺とさつ現場を目にしたことのない人間には少々刺激が強すぎたようで、口を抑えて吐き気を堪えている。


 淀みない手捌きで解体を続けていた円堂は、黄色の脂肪が張り付いたノコギリで頸椎の関節を切断すると、かろうじて残っていた頭皮側の皮ごと頭部を切断した。


 ゴトリ、と落ちた頭が榎原を向き、ビー玉のような瞳でじっと見つめている。


「榎原くん。解体したばかりの肉はね、すぐに食べても美味しくないんだよ。どうしてだと思う?」


 傷一つつけることなく内臓を全て取り除くと、手術室の機械台を彷彿とさせるワゴンに頭を切り離したノコギリを置いて、初めて円堂は声をかけた。

 つばを飲み込んで首を横に振るしかできなかった榎原に説明を続ける。


「肉の旨味というのはグルタミン酸、イノシン酸、グアニル酸といった旨味成分の含有がんゆう量で決まる。意外に思うかもしれないけど、屠殺直後の肉にはこれらの成分が少なくてね、イノシシの場合は5℃の低温下で四日熟成させると、それらの数値が最適な数値に達するんだ」

「ちょっと待ってくれよ。さっきから何をいってるんだ?」

「鈍いねぇ」


 呆れるように笑う円堂は、ワゴンの上から小型のナイフを手に取ると、目にも止まらぬ速さで投擲とうてきをした。一直線に飛んだきっさきは壁にもたれていた榎原の顔すぐ横に突き刺さり、遅れて気がついた榎原の顔面は凍りつく。


「榎原。お前達が俺の過去を詮索したことは特別に忘れてやる。だから回れして東京に帰るんだな。この時間ならまだ会津若松行きの電車は残っている」

「ちょ、さっきも言っただろ! アンタを連れて帰んないと俺の命が」

「お前がどうなろうが知ったことではない」


 諦め悪く縋り付いてくる榎原を剥がしたその時――場違いな電話の着信音が甲高く鳴り響いた。


 自然と音の発信元――榎原に視線が向き、恐る恐る電話に出ると表情を一変させ、「組長がアンタと直接話がしたい」とスマホを差し出してきた。


 無言で受け取ると耳障りな濁声だみごえが耳朶を撫でた。


「アンタが木之下さんか。俺は宝来達人ってもんだが、ウチの若いもんじゃ埒が明かなそうだと思ってな、直接ナシをつけようじゃないか」

「この小僧にも話したがな、ヤクザか何だか知らんが、俺に構うのは止せ」

「そんなつれない態度を取るなよ。ちっと消してもらいたい人間がいるだけだ。大竹組という名前くらいは山奥で隠遁生活していても聞いたことくらいあるだろ」


 大竹組――関西を地盤とする特定指定暴力団。日本の闇社会の覇権を東の井筒会と争っていることくらい、一般常識に疎い木之下でも知っている。


 つい先日の井筒会幹部銃撃事件は記憶に新しい。暴対法施行後は滅多なことでは表立っての抗争が繰り広げられることは少ないが、本家前で井筒会の直系幹部が乗車した車に隠れ潜んでいた大竹組の狙撃者ヒットマンが銃撃し、多数の死亡者が出ていた。


 確か――たまたまその場に居合わせた一般人も含めた六名のうち、四名は死亡して二名は重体とアナウンサーが語っていた覚えがある。


「その大竹組の若頭である関克洋せきかつひろを消してもらいたい。もとはといえば関は俺の後にさかずきを貰った、いわば兄弟分なんだが、ありとあらゆる卑怯な手で俺を出し抜いて今の地位に居座ってやがる。とにかく奴はヤクザの面汚しなんだ。金の為なら中国や台湾の不良どもと手を組んで好き勝手しやがるし、奴を恨んでる人間はごまんといるだろうよ」


 延々と続く宝来の説明には、直接口にはしなかったものの関克洋という男に対する嫉妬やひがみが垣間見えた。そして宝来の小ささも。


「俺はな、その恨みをまとめて晴らしてやりたいんだよ」


 ひとしきり話し終えた宝来は、満足気に電話口で深々と息を吐いた。ソファにもたれかかって紫煙を燻らせている絵が容易に浮かぶ。


「何度頼まれようが答えは変わらない。東京には榎原だけが帰ることになる」

「そんな態度を取ってると、後悔するのはアンタだぞ? ほら、瑠奈ちゃんがどうなってもいいのかよ」

「……貴様、瑠奈に何をした」


 スマホを握る手に力が入る。


「いやあ、俺は何もしてないぞ。今はまだな。ただ、答えによっちゃあ不慮の事故に遭うかもしれないなあ」


 不穏な空気を察した円堂は、横から視線で「どうしたんだ」と訴えてくる。

 眼の前が怒りで真っ赤に染まるなか、息を整えてスマホを顔から離した。


「やられた。最初ハナから俺が断れないように瑠奈をマークしているみたいだ」

「瑠奈が? それは本当か」


 円堂にとって大事な一人娘は、この世に肉親が一人としていない木之下にとっても、かけがえのない存在だった。


 今年で十九になる円堂瑠奈えんどうるなは、大学進学を機に子離れできない父親のもとを離れ、現在東京で一人暮らしをしている。瑠奈の身を常に案じてやまない円堂は、久方ぶりに憤怒の形相をみせた。


「話を続けてもいいかい?」

「さっさと話せ」


 自制心を総動員させて宝来に返事をする。


「そう熱り立つなよ。詳しい話はこっちに辿り着いてから話すとして、そうだな……明日までにそこの榎原とともに荷物をまとめて東京こっちへ来い。言うことを聞かなければどうなるか、わざわざ口にしなくてもわかるよな」


 通話が切られると、円堂が呼びかける声が頭蓋内に反響した。携帯電話を握りしめていた手は力なく垂れ、選択肢のない依頼を受けざるを得なかった木之下は黙って処理場を後にした。 

 

 今も背負い続けている十字架に、押し潰されそうになりながら――。

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