第8話
先に辿り着いたリュウに吠え立てられ、安堵からか立ち上がれそうにない男のもとに辿り着くと外見はまだ二十代も半ばあたりの小僧だった。
男は木之下の顔を目視した瞬間、驚いたように目を見開くと震える口を開いた。
「あ、あんたは、もしかして木之下直義さんか?」
「いかにも。木之下とは俺のことだが、さて、お前はなぜ俺の名前を知っている。どこかで会った記憶もないが」
「ああ、まあそれは……。と、とにかく助かった。クマに追いかけられたときは死ぬかと思った」
榎原と名乗る男を一瞥すると、登山にはまるで向いていない軽装であることは一目でわかる。中綿の抜けたペラペラのダウンジャケット。クマの前脚で引っ掻かれたようなボロボロのデニム。それとアスファルトで舗装された道しか歩けなさそうな心許ないスニーカーと――どこをどう見ても街歩きをするような格好にしか思えない。
これで雪山に挑む奴は、余程の大馬鹿か自殺志願者に違いない。自分の体を抱き竦めながら榎原は木之下を見上げた。
「寒くて死んじまいそうだ。どこか暖まれるところまで連れてってくれないか」
「とりあえず麓までは連れて行ってやるが、その後は自分でなんとかしろ。ただでさえ命を救ってやったんだ。多くを望みすぎると罰があたるぞ」
不審な男から射止めたばかりのツキノワグマの個体に視線を向けると、本来あるべきはずの月の輪の紋様が消失している珍しい個体であることが判明した。
真っ黒な毛並みが全身を覆っている。分厚い皮下脂肪に覆われた体は上半身の筋肉が異様に発達し、立ち上がれば二メートルは超えそうなほどの巨躯であった。
間違いなく奥会津で見つかった最大サイズに違いない――。だからこそ、すぐに麓へ下ろせないのが悔やまれる。
「なあ。実はもう一人山中ではぐれたんだけど、どこかで見かけなかったか」
「さあ、知らんな。それよりどうしてこの時期に、そんなバカ丸出しの軽装で雪山に足を踏み入れたりしたんだ」
「そ、それは……」
出来れば貴重な〝熊の
翌日再び回収に訪れるまでの間に、内臓の腐敗が進行しないよう処置を施してから答えに窮している榎原に再び視線を戻す。
「どうやら怪我はしていなさそうだが、まさか腰が抜けて一人で歩けないとか抜かすなよ」
「べ、別にどこも怪我なんてしてねえし。そんな間抜けな男じゃねえよ」
そう告げると膝に力を入れて体を起こした。面倒極まりないが、この榎原とやらを雪山に置いていっても凍死すること間違いない。中途半端に助けた手前、勝手に死なれても目覚めが悪いだけなので仕方なく麓へ連れ帰ることを決めた。
「お、おい! なにすんだッ!」
「ガルルルル」
時折、警戒心の強いリュウに噛まれて腰が引けている榎原を連れて、ようやく路肩に停車していた軽トラに再び辿り着くと、リュウをいつもの指定席である荷台に鎖で繋ぎ止める。
身動きを封じられた猪の姿に驚きを隠せない榎原を助手席に押し込む。麓まで走らせている道中で立場を理解していないのか、山中ではぐれたというもう一人の安否を確かめるようしつこく詰め寄ってきた。
「だから、どうして探さないで帰ったりするんだよ」
足をダッシュボードに投げ出してわざとらしく悪ぶってはいたが、シートベルトをしっかりと締めてるあたりから虚勢を張っていることはバレバレだった。
「馬鹿言うな。完全に日が暮れた山林を捜索する馬鹿がどこにいる。いいか、俺はたまたま悲鳴を聞きつけて死に直面していたお前を救ってやったんだ。それ以上を求めるというのなら、来た道を引き返して引きずり下ろしてもいいんだぞ。またクマと遭遇しないとは言えないがな」
「はあ? い、意味わかんねえし」
声のトーンを落として、フロントガラスの前方に広がる闇夜を見据えて告げると、榎原はバツが悪そうに舌打ちをした。先程死にかけた記憶が鮮明に蘇っていることだろう。
「お前が説明した内容で間違いのであれば、その鷹岡とやらの安否は絶望的だろう。どれだけ格闘技に精通してようが腕力に自信があろうが、所詮人間の身を守るのは鎧とも呼べない薄皮一枚だ。そんな人間が闘争本能を剥き出しにしたクマに徒手空拳で勝てるはずがない。投げ飛ばしたり返り討ちにしたりできるのはフィクションの世界だけなんだよ」
猟師であっても、半矢――つまり一撃で致命傷を与えることに失敗するということは、木之下のような単独猟を主としている場合致命的である。
対象との距離が近いと二十〜三十メートル程度の距離はあっという間に詰められ、距離が離れていれば安全というわけでもなく追跡する場合も危険を伴う。
基本的にクマは大変臆病な性格で人間を本能的に恐れる生き物だ。無駄な争いを避けるように自ら離れていく賢い生き物であるが、予期せぬ傷を追ったクマは興奮状態に陥り、姿を隠してしまうことがある。
いったんは傷の痛みとパニックから逃げるものの、身を隠す天才でもある彼らは目を離すと瞬く間に自然の中に溶け込む。
〝止め足〟といって足跡だけを残し、藪の中に逃げ込まれると素人目には神隠しにあったとでもいうように、足跡の痕跡は途中で途切れてしまう。
知恵を駆使するクマの漢字の由来は、能力のある四足動物を意味する。彼らは成功も失敗も学習するし、自らに降りかかる危険を排除しようと、追跡者を待ち構えて反撃を虎視眈々と狙う――。
手負いのクマを相手取るということは、銃器を手にした人間を相手取るのとは、まるで勝手が違う。助手席の榎原は頭を抱えて項垂れながら、この世の終わりだと悲観するようにぶつぶつと呟いていた。
「うわあ……マジか。この不始末をなんて報告すればいいんだ」
「榎原。お前は一体何者で、なんの目的で奥会津までやってきたのか、いい加減白状してもらおうか」
カーブに差し掛かりハンドルを切ると、ダッシュボードに乗せていた足が滑り落ちた榎原は、何事もなかったかのように外を眺めて誤魔化した。
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