第7話

 稜線の向こうに日が落ちると、瞬く間に暗闇が山肌を包み込んだ。気のせいだとわかっていても木立の隙間から無数の視線を向けられているような――一言で表せば言いしれぬ恐怖に榎原は怯えていた。


「もう、足が棒ですよ……」

「さっさと歩かねえと置いていくぞ」

「待ってくださいって」


 吐く息は真っ白だというのに、ダウンジャケットの下はサウナスーツを着用しているかのように多量の汗でベタついていた。

 鷹岡にいたってはジャージの袖を捲くって木の幹のような前腕をさらけ出している有り様である。


 スマホのライトを点灯させて前方を確かめながら歩いていると、途中から背丈が一メートルほどの熊笹の群生地に足を踏み入れた。ちょっとした振動で葉が揺れ、葉に積もった雪がガサガサと音を立てて落ちていく。


 僅かな風が吹くだけで目に見えない生き物が潜んでいるかのように周囲の笹の葉がざわめき出す。その中を鷹岡は躊躇せずに掻き分けて前に前に進んでいく。


「おい。発砲音が聞こえた方角はこっちで合ってるんだろうな」

「だと思いますけど。……あれ? ちょっと待って下さい」

「なんだよ。いちいち足を止めんじゃねえよ」

「ちょっと静かにしてください」


 機嫌を悪くする鷹岡を黙らせると、微かだが笹の間をナニかが移動しているような気配がした。


「今、なにか動いた音が聞こえませんでしたか」

「はあ? どうせあれだ、ウサギかなんかだろ」

「ウサギ……そうですかね」


 釈然とはしないが、鷹岡は榎原の相手をする気などないようで、気にせず奥へと分け入っていく。人の記憶とは適当なもので、長らく忘れていた祖父との会話の一部を榎原は今更ながら思い出した。


 その昔――山菜採りに出掛けた際にツキノワグマと遭遇した経験がある祖父は、幼かった榎原に『音もなく突然目の前に現れたんだ』と語っていた。


「いいか、輝。クマはあんな図体しとる癖に音もなく獲物に近づいてくんだ。オレんときもそうだった。ちょうど屈んで山菜採りに熱中していたら、眼の前の熊笹から、ぬっと巨体が飛び出てきたんだよ。あん時はさすがに死ぬかと思った」


 人様に後ろ指指される仕事に就いて、とうとう死に目にも立ち会えなかった祖父の面影を思い出していると、今度こそはっきりと笹の上に積もった雪が落下する音を神経が過敏になっていた榎原は聞き逃さなかった。


 気配もなく、というのはまさにこのことで数メートル先の藪が突如倒れると、姿を現したのは野生のツキノワグマだった。

 太い首をこちらに傾けると、胸に刻まれた三日月の紋様を見せつけるように二本足で立ち上がり品定めをするようにじっとこちらを見ていた。


 爺ちゃんの言っていたことは正しかったと、改めて思い知る。自分に残された選択肢は、鷹岡を置いて逃げる他なかった。


「う、うわぁぁぁ」

「テ、テメエ! 一人で逃げんなよ!」


 待ち伏せていたかのように姿を見せたクマに本能的に死を覚悟した。背後で吠えていた鷹岡のことなど捨て置いて背中を向けて走り出すと、あれほどクマなど恐るるに足らずと豪語していた男の初めて聞く悲鳴が飛んできた。


「立ち止まるな、立ち止まるな――」


 野生の鹿や猿などは安全な車中から見たことはあったが、生まれて始めて自然の中で対峙したクマの姿は、これまで見てきた裏社会の人間の誰よりも恐ろしかった。


 根源的な恐怖の前では、自分なんて塵芥ちりあくたの存在でしかないと鼻水を垂れさせながら、必死に雪の中を走っているとピタリと鷹岡の悲鳴が聴こえなくなった。


 恐る恐る振り返ると、まっすぐ追いかけてくるクマの姿が、もう近くまで迫っていた。


 ――ああ、コレはもうダメだ。


 ツキノワグマの走る速度は原付バイクと同程度と聞いたことがある。ただでさえ足元が深い雪で阻まれてる以上、逃げおおせることなど不可能だった。


 置いてきた鷹岡がどうなったかなど想像するに難くない。突進してくるクマから逃れる術もなく生を諦めて立ち竦んでいると、耳をつんざく発砲音が轟いた。


        ✽✽✽


 悲鳴が聞こえた方角へ向かっていた木之下は、冬でも葉を落とさない針葉樹の隙間から断続的に届く悲鳴を捉えていた。


 日が落ちてそれほど時間は経っていないものの、空には分厚い雲が蓋をしてぼた雪が降り始めている。月明かりは望むべくもなく、濃い闇が広がる木々の隙間から届く悲鳴は、例えるならナニかに追われているような切迫したものだった。

 いずれにせよ、尋常ではない様子なのは確かである。


 以前救出した登山者の一人は、雪庇の存在を知らずに滑落し片脚を複雑骨折した。もう一人は低体温症で発見され、命に別状はなかったが既に足の指先に壊死が見られた。直近の一人は、小規模の雪崩に巻き込まれて心肺停止で発見されたが、心肺蘇生を試みて九死に一生を得た。


 そのどれもが自然を舐めた結果であり、自然から牙を向かれたがゆえの事故だったが、今回は訳が違うようだった。


「アイツか、騒々しいのは」


 目測八十メートルほど離れた位置で、ここを平地と勘違いしているとしか思えない軽装の男が両手両足を滅茶苦茶に振り回しながら、下方の沢めがけて駆けていた。


「助けてくれ」と、息も絶え絶えに連呼しながら、しかし足を取られ満足に前に進めてはいない。リュウの顔と耳は男の後方へと向けられている。尾はピンと垂直に立ち、前脚は今にも駆け出さんばかりに力がみなぎっていた。


 野生動物に警戒している合図に他ならない。そして、リュウが警戒を示す存在が闇の中から姿を現すと百戦錬磨の木之下も、顕になった対象を見て息を呑んだ。


「あんな大きなツキノワグマは、見たことがない」


 男の姿が前のめりになった瞬間、背後の木々の隙間から一匹のツキノワグマが姿を現した。驚いたのは桁違いの大きさ――二十年の猟師人生の中でも見かけたことのない巨体は、もはやヒグマとなんら遜色がないように思えた。


「あの阿呆が。クマに背を向けて逃げるバカがどこにいる」


 即座に散弾銃を構えて照準を合わせる。

 体力は落ちこそすれ、昔取った杵柄きねつかとやらで視力だけは一向に落ちず、暗闇の中でも獲物ターゲットの姿は判別できる。


 クマの習性で背中を向けて走る物体を本能で追いかけ襲いかかってしまうのは有名な話だが、一見すると鈍足にも思える図体は時に時速四十〜五十キロにも達して、本気で追われてしまえば人間が走って振り切ることは百メートル走の世界記録保持者で不可能である。


 逃げていた男はとうとう体力が限界を迎えたのか、それとも生きることを諦めたのか足を止めると、それっきり動こうとしなかった。


 ――時間はない。


 集中力を極限まで高め、今にも男に飛び掛からんとする額に向けて「ここだ」というタイミングで引鉄を弾く。


 放たれたスラッグ弾は初速千メートルをゆうに超え、次の瞬間には今にも鋭い爪を一閃しようと片脚を振り上げた巨体に見事命中し、一拍置いて横向きに倒れた。


 いつまでも自らが事切れないことに異変を感じた男は、ゆっくりと顔をあげると目の前で横たわっていたツキノワグマの姿を見て、再び悲鳴を上げると腰を抜かせ呆けていた。

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