第5話

 週末ということもあり、午後十時を回っても靖国通りを歩く歩行者は皆浮かれ騒いでいた。榎原は着古したダウンジャケットのポケットに両手をつっこんで少しでも暖を取ろうと試みたが、周囲で馬鹿騒ぎしている連中を見ていると、余計に体が冷えていくように感じてならない。


 通りを塞ぐ歩行者を掻き分け、コマ劇場の前に意味もなくたむろしている物見遊山の外国人観光客の中を通り抜ける。猥雑な電飾の風俗店が建ち並ぶ小路こみちに足を踏み入れると、顔馴染みのキャッチに呼び止められたが構っている時間はなかったので、軽く手を上げて断る。


 白い息を吐きながら急ぎ足で目的地の中華料理店まで向かっていたが、どうせまたしけたシノギを任されるに違いないと溜息ばかり吐いた榎原は、社会の厳しさとは何たるかも知らないような顔立ちの新社会人と思しき集団とすれ違いざまに肩がぶつかった。


「あ、すみません」


 ぶつかってきた本人は反射的に謝罪を口にしたものの、振り返ってこちらの姿を一瞥すると瞳の奥に見下すような影を感じた。それがひどく屈辱的に感じてネクタイを掴んでやると、鼻と鼻が接触しかねない距離まで詰めよって睨みをきかせる。

 若者の喉仏が上下に動いていた。


「なんだよ、その目は。俺の事バカにしてんのか」

「え、い、いや、そんなつもりは……」


 恐らく年下であろう若者は顔を引き攣らせて弁明を試みていたが、相変わらず見下すような目の色は変わらない。

 ヤクザに身をやつして以来、自分以外の全てが敵に見えてしまい、日を追うごとに腐っていくばかりだった。周囲がざわつき始めたのでネクタイから手を離して突き倒すと、若者たちはそそくさと雑踏の中へ姿を消していく。


 ―そうだ。そうやって全てが俺から離れていけばいい。


 周囲の人間は、榎原が怪しい連中と付き合いがあることを知ると潮が引いていくように遠ざかっていった。それもこれも、先輩についていった闇スロットで莫大な借金を背負ってしまったことが原因だった。


 到底支払えない借金を完済するか、それとも裏社会に足を踏み入れるかの二択を迫られた榎原は後者を選択した。その選択をしたことを今更悔いても遅すぎた。


 事務所もなければフロント企業も持たない。構成員五名という風が吹けば消えてしまいかねない弱小組織である宝来組に、金の卵を産むほどのシノギは存在しない。


 何者も恐れないヤクザとはいえ、組員一人一人が組長というオーナーのもと、フランチャイズ加盟店のように上納金というノルマを達成する必要がある。

 せせこましく犯罪を犯してなんとか糊口をしのいでいる悲惨な状態で、任侠もなにもあったもんじゃない。現実はノルマに追われるサラリーマンと何ら変わりはなかった。


 ただでさえ風前の灯だった宝来組に、さらなる追い打ちがかかる。数少ない五名の構成員のうち、古参だった一人は〝ドラッグ〟の売人プッシャーだったのだが、職務質問で覚醒剤所持が発覚してしまい、尿検査で自らも使用していたことがバレてその場で現行犯逮捕されてしまったのだ。


 常習犯だったこともあり、即実刑で収監されてしばらくは出てくる気配はない。もう一人はというと、困窮した現状から抜け出そうと一発逆転を狙い過ぎて功を焦ったのか、空き巣に入った豪邸で鉢合わせた家主の頭部に大怪我を負わせてしまい、情状酌量の余地なく強盗致傷で当分は塀の中から出てこれないといった有様だった。


 宝来組は天下の大竹おおたけ組に名を連ねてはいたものの、直系でもなければ末端も末端――本家とは程遠い木っ端の組織だった。


 大竹組が巨木の幹だとして、宝来組は幹から伸びる枝から幾度も枝分かれを繰り返した先の先端である。歌舞伎町で同業者とすれ違おうものなら、「ヤクザの面汚しだ」と鼻で笑われたことも何度もある。


 そんな組織に取り込まれてしまった自分に、明るい未来は二度と訪れないと常々思っていたが、不幸というものは連鎖して訪れるのが世の常――。


 元が何色なのか判別がつかない暖簾のれんの前で立ち止まると、滑りの悪い引き戸を開けて店内に足を踏み入れた。ギトギトの油でスケートリンクと化した床と、愛想というものを知らない店主の仏頂面が榎原を出迎える。


 いらっしゃいの一言もなく、どうせ大した客も入らないのに黙々と明日の分の仕込みをしながら、店主は白髪が目立つ顎髭で奥のテーブル席に陣取っている宝来達人ほうらいたつひとと、その斜め後ろで直立不動の姿勢を崩さずに立っている鷹岡を指す。


 ――アンタらに居座られると面倒なんだよ、と店主の薮睨やぶにらみの視線が訴えていた。


「随分と遅かったじゃねぇか。組長オヤジ直々の呼び出しなんだからさっさと来いや」

「すみません。どうも食あたりでもしたのか腹の調子が悪くて……」

「だからテメエの腹の調子なんて聞いてねえんだよ。来いっつったら下痢だろうが盲腸だろうが、何が何でもすぐに駆けつけてこい」

「まあまあ、鷹岡もそこらへんにしておけ。飯が不味くなるだろ」


 小心者のくせに矜持プライドばかり肥大していた宝来は、部下の前で器の大きさをアピールするかのように鷹岡を片手で制すると、榎原に空のグラスを手渡してニラが挟まる前歯を覗かせた。


「テル。お前も一緒に飲めや」

「はあ……それじゃあ一杯頂きます」


 テーブルの上にはレバニラ定食とビールの中ジョッキ。それを嗜んでいるのは髪が薄く頭皮が目立つ肥満男性が一人。


「ヤクザは良いスーツを着ろ」と口酸っぱく語っているだけあって、素人目に見ても仕立ては良さそうなピンストライプのスーツを宝来は着ていたが、残念ながら本人に全く合ってはいなかったし、タレがワイシャツにシミを作っている。


 何度も勘弁してくれと言っているにも関わらず、榎原が嫌悪する下の名をあえて口にするところがこの男の意地の悪さを物語っている。


組長オヤジ。榎原のバカも到着したことですし、そろそろ例の極秘任務トップシークレットとやらについて頂けませんか」

「ぶふっ」


 鷹岡が三人と一人だけの店内で極力声を抑えて発した単語に、思わずビール吹き出しそうになり我が耳を疑った。

 榎原にはどうしてそこまで組長に心酔できるのか理解に苦しむが、鷹岡はかねてより宝来を神のごとく崇めている節がある。


 十代の頃にヤクザの女に手を出したとかで、山に埋められる寸前だった鷹岡を助けたのが宝来だという。怒り狂ったヤクザの事務所に単身乗り込み拳で黙らせると、今後一切鷹岡に手を出さないようにと手打ちを結んでくれた漢の中の漢だと、鷹岡が自慢気に語るのを耳にタコが出来るほど聞かされた。


 真偽の程は不明だが、本人は命を救って貰って以来、恩義に対して厚い忠誠心をもって報いている。宝来は一度、ビールで口の中を潤すと重々しく口を開いた。


「実はな、探してもらいたいヤツがいるんだよ」

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