第4話

「鷹岡さん。これ、完全に迷ってますよね」

「何が言いてぇんだよ」


 榎原輝えのはらてるは、雪道を掻き分けて先を歩く鷹岡の壁のような背中に声をかけた。


「だから言ったじゃないですか。せめて装備を揃えるなり、山に詳しい人間をつけるなりしてから臨みましょうって。なにも後を追って山に入らなくても麓で待っていれば」

「テメエはさっきからイチイチうるせえんだよ。黙って着いてくるか、それが嫌なら一人でとっとと帰りやがれ」


 先を歩く鷹岡圭吾たかおかけいごの単細胞を舐めていたと、榎原は愚行を止められなかった己の意気地の無さを、猛烈に後悔していた。


 まさか、登山経験など皆無の二人が、相応の準備もなしに冬の雪山を行軍することになろうとは想像もしなかった。

 山の日没は早いと聞いたことはあるが、瞬く間に陽は西の稜線に沈みつつあり、山肌を影が覆い始めると体感温度もみるみる低下していくのが実感できる。


 歯の根は合わず震える手でスマホを取り出すと、贔屓ひいきにしているキャバクラの〝音々ねねちゃん〟からのラインの返信に、冷たくなっていた胸が少し高鳴ったが、内容を確認してすぐに肩を落とした。


〈テルちゃん今日来れなくて音々寂しいよ〜。また今度遊びに来てね!〉


「なんだ。ただの営業メールかよ」


 何もなければ、今頃は音々ちゃんの誕生日を祝っているところだったのに――現実とのあまりの乖離ギャップほぞを噛んだ。


 欲しかったと前々からしつこく強請ねだられていたブランドの財布まで用意して、コツコツとまめに通いつめることで貯めていた好感度のゲージは、今日で満タンに達するはずだった。


 そしてアフターにしけこんで、めくるめく夜を二人で過ごすはずだったのに――眼の前にはドレスの隙間から覗く妖艶な背中ではなく、僧帽筋と後背筋が盛り上がる屈強な男の背中が広がるばかり。


〈今日はお祝いに行けなくてゴメンね。今度埋め合わせするからさ〉


 寒さでかじかんで震える指を懸命に動かし、何度も打ち損じながらメッセージを送るも、既読は付くのだが会話のラリーはそこで途絶えた。これまで費やしてきた時間と金が無駄に終わった瞬間だと悟り、重い足取りにさらにかせをはめるような徒労感が、どっと肩に伸し掛かる。


「クソッ……もう少しでヤレそうだったってのに」


 地団駄を踏もうにも膝上まで埋まる雪がそれすら許してくれず、気休め程度にしかならない断熱性のダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んで体の断面積を少しでも減らした。


 容赦なく吹き下ろしてくる鋭利な風のせいで、体の芯から冷え切って一向に震えが止まらない。近所に出かける程度の軽装で訪れてしまったため、体温は急速に奪われていくばかりでこのままだと低体温症に陥る危険性さえ間近に迫っている。


 本当に今更だが、登山道入口に〝閉山中〟と記された看板が立てかけてあった時点で、怒鳴られようが殴られようが、考えなしの鷹岡を止めるべきだった。


「鷹岡さん……一旦麓に戻りましょうよ。このままだと日が落ちて本格的に危ないですよ」


 榎原はさりげなく助言するも、鷹岡は口角を吊り上げて振り返った。雪山に現れた鬼そのものだった。


「帰りたきゃ一人で帰れ。ただし、組直オヤジには『お前が命令を無視して逃げた』とだけ伝えておくからな」

「ちょ、それだけは勘弁してくださいよ」


 耳は一部欠損し、断耳だんじを施したピットブルのような体躯の鷹岡は、むしろ邪魔者は消えてくれたほうが助かると言わんばかりに痘痕あばたが目立つ顔を醜く歪ませた。


 単細胞が故に寒さに鈍感なのか、上下ジャージ姿でもお構いなしに雪の中をずんずんと突き進んでいく。そんな男の後を着いていくしか選択肢がない自分の人生に、ほとほと嫌気が差す。


「鷹岡さん。組長オヤジのことを疑うわけじゃないですけど、こんなド田舎の山奥に本当に凄腕の狙撃手スナイパーなんているんですかね」

「なんだよ。何が言いたい」


 流石に先頭を歩き続けて息が荒れてきた鷹岡は、振り返ることなく不機嫌そうに答えた。


「組長は、どうしても木之下という男を必要としているみたいですけど、聞いた話は現実離れしてるっていうか、眉唾ものですよね。首尾よく木之下とやらを見つけて東京に連れ帰ったところで、本当に役に立つかどうかなんてわからないですし」

「アホかコラ。組長が連れてこいって言うんだったら、草の根を掻き分けてでも探し出して首根っこ捕まえて連れてくんだよ。『親の命令は絶対』を忘れるな。黒と言われたら白も黒。ツチノコと言われたら蛇もツチノコであることを忘れるな」

「はあ……」

「ったくよ、大学に行っててそんな常識も知らねえのかよ」


 榎原は二十歳で通っていた大学を中退し、紆余曲折を経て現在宝来ほうらい組の構成員に身をやつしている。

 根っからの不良でもなければ、憧れて裏社会に飛び込んだわけでもない。好き好んで門を叩いたわけでもないのに、同じような使いっ走りの立場で粋がってデカい顔をしている鷹岡より人間的に幾らかマシだろうと、無理矢理自分を慰めて無為に過ごしていた。


 ぼんやりと考え事をしながら歩いていると、足元の地面が突然崩れ落ちて片脚が宙に投げ出される浮遊感を感じた。

 辛うじて近くの木の幹にしがみついて難を逃れたが、悲鳴を上げることも忘れて恐る恐る下を覗き見ると、数十メートルはあろうかという急斜面が、底を流れる沢まで続いていた。


 万が一滑落していたら――唾を飲み込んで覗いていると、足を止めた鷹岡の罵倒が鼓膜に突き刺さる。その瞬間、頭の中で悪魔が囁いた。


 ――眼の前の背中を軽く押してしまえば、少なくとも事故で処理されるぞ。

 

「そうだ。もうこんな生活ウンザリだ」


 耳元で悪魔が高笑いをしている。

 組長の指示で行う特殊詐欺も、ひったくりも、密漁も、全部ウンザリだった。それに鷹岡の傍若無人な振る舞いにもいい加減我慢の限界を迎えていた。


 雪山で行方不明にでもなってしまえば、すぐには発見されないのでは――後になって考えれば浅慮にもほどがあるが、それだけ精神的に追い詰められていたとも言える。


 ゆっくりと忍び寄り、後は覚悟を決めて押すだけというところで突然振り向いた鷹岡に、驚きのあまりその場で腰が砕けると胡乱な眼差しを向けられた。


「ナニしてんだよ。つーか、その手はなんだ」

「い、いえ、なんでもないです」


 谷底に突き落としてやろうと伸ばした両手と頭を横に振って否定した。

 そもそも人一人を殺める度胸があるのなら、ヤクザの仲間入りをすることもなかったはずだと自嘲して立ち上がる。何もできずに流されるまま生きてきたから、ここにいるんだ。


「まあいいや。ライター持ってねえか。俺のジッポがまるで使えねえんだよ」


 まさか突き落とされかけていたとも知らずに、鷹岡は煙草を咥えながらジッポのフロントウィールを何度も回していた。


「俺のでよければ」

「貸しやがれ」


 差し出した百均のライターを奪いとると、一発で着火したことに理不尽に腹を立てて投げ返される。針葉樹の枝葉を揺らす風に煙を燻らせながら美味そうに吸っていると、突然木々の間から発砲音と思わしき銃声が轟いて二人して体を固まらせた。


「今の銃声……探してる〟凄腕の狙撃手〟とやらかもしんねぇな」

「それは見つけてみないとわかんないですけど、とりあえずこのまま右往左往していても凍え死にそうなんで、音が聞こえた方角に向かってみましょう」

「おまえが俺に指図するんじゃねえ」


 耐え難い寒さに加えて、榎原には一刻も早く下山したい懸念材料があった。それは麓の村で声をかけた老人に忠告された言葉だった。


「そういえば、麓でヨボヨボの爺さんに口酸っぱく注意されたじゃないですか。『今年はクマの冬眠が遅れてるから素人が立ち入るな』って」

堅気カタギのジジイの忠告なんざ、いちいち聞いてられっかよ。なんならクマが現れてもこの腕で絞め殺してやるから安心しろ。熊鍋にでもしてやるよ」


 そう言うとジャージの上から、ソフトボール大の上腕二頭筋を強調させる。確かに鷹岡の膂力をもってすれば、熊ですら投げ飛ばすのも不可能ではないのかもしれない。現に百キロはあろうかというチンピラを背負投げして重傷を追わせる現場を目撃したことがある。


 こんな訳のわからない仕事はさっさと終わらせて、一刻も早く熱い風呂と酒を頂きたいものだと、榎原はなけなしの気力と体力を振り絞って後を追いかけた。

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